脱近代を「家内領域と公共領域との高い段階での再統一」と捉えることの意義

遠山日出也(2022年12月18日作成、2024年1月16日修正)

 いくつかの拙稿で述べた、「近代(家族)」を乗り越える方向性について、「家内領域と公共領域との高い段階で再び統一すること」として捉えることの意味についての筆者の現時点での主張を、以下に簡単にまとめておく(筆者の主張の全体としての骨格を示しているのは[遠山2021,2023]である)。

1.先行研究との関係

 私の主張は、以下の先行研究を踏まえている。
●落合恵美子の「近代家族」論[1985]は、以下のように述べている。今日「家族」と呼ばれている社会現象は、近代になって生じたものである。その「諸特徴のうちで最も基底にある」のは、「家内領域[家族]と公共領域[市場、市民社会]の分離」である。なぜなら、それは、家族が「社交のネットワークを切り捨て」る一方で、「家族の集団性の強化」や「家族成員相互の強い情緒的関係」が生じることを意味するからである。家族は市場に「近代的個人」(成人男子)を供給する装置となり、その仕組みとして「男は公共領域・女は家内領域という性別分業」も成立した。近代家族は「『平等主義規範』の浸透を家族の壁で遮断」する。
 その「(近代)家族」は今後どうなる(するべき)かという点に関して、以下のような議論がなされている。
●水田珠枝[1985]は、つとに、「家族[=家内領域]と社会[=公共領域]との間に明確な境界を作る」ことを批判し、(1)「社会の長所である平等な人間関係を家庭内に導入し」、(2)「家族の美点である『相互扶助』を社会で実現」すべきであると主張した。
●さらに、伊田広行[1995]は、そのようにして「家族概念が意味をなさなくなるようにする」のが、「シングル単位化」のための「基本戦略」であると述べた。
 以上の議論を踏まえて、筆者[遠山1998]は、水田や伊田が述べているのは、「家内領域と公共領域の分離を再びより高い段階で統一すること」であり、そこに「歴史の進歩」があると捉えた。「より高い段階」と言う理由は、前近代の共同体に戻るのでなく、自立した個人の全世界的な相互連帯を実現するからである。

2.家内領域と公共領域との高い段階での再統一と女性運動

 家内領域と公共領域との高い段階での再統一にとって、女性運動は、以下の3つの点において、水田や伊田が上の(1)(2)で述べたことを実現するために不可欠である。
 1. 女性が公共/男性領域(職場、政治など)に平等に参加する。また、家族の中でも個人の権利を実現する。このことは、「個の尊重と平等」という規範を、公共領域や男性だけでなく、家内領域や女性にも適用することである。
 2. 女性が担ってきた再生産活動を家族の外でも経済的・社会的に正当に評価・保障させる(たとえば保育・介護を有償化し、その低賃金を是正する)。このことは、家族内の相互扶助を公的領域でも実現することである。
 3.上の1と2を推し進めることによって、性別分業が解消されて、女性も男性も経済的・生活的自立を実現し、家族の内か外かに関係なく、誰もが個を尊重され、相互扶助をおこなう(その意味では家族という単位は解消される)社会が実現する。

3.「近代家族」の2つの意味の区別――時期を区別しつつ、家内領域と公共領域との再統一を歴史の大きな流れとして捉える

 歴史の大きな流れとして、家内領域と公共領域との高い段階での再統一があると捉えるには、「近代家族」の2つの意味を区別することが必要である。

 私は、「近代家族」には、相対的に区別された、下の2つの意味があると考える。
 (A)先述の「家内領域と公共領域の分離」=家族が単位であること自体→近代全体に当てはまる。
 (B)女性の「主婦化」(M字型カーブの底の深さ)をメルクマールとして捉えた、1970年代にピークに達した「男は仕事、女は家庭」という性別分業[落合1994]である→ここでは、「狭義の「近代」」と呼ぶ。

 なぜ(A)と(B)を区別することが必要かと言えば、落合が(B)が完成したという1970年代は、(A)の定義の家族は、戦前よりもむしろ掘り崩されていた面もあるからである。たとえば、
 ・戦後改革による女性参政権獲得は、近代家族の「男は公共領域・女は家内領域という性別分業」「家族の集団性」「『平等主義規範』の浸透を家族の壁での遮断」を掘り崩すうえで一歩前進であった。
 ・また戦後は、保育運動などによる、結婚・出産しても働き続けられる権利獲得の前進があった。これは、M字型カープの底を埋める運動であり、落合の(B)の議論から言っても、近代家族の乗り越えへの前進であると言える。

 このよう両者を区別することによって、歴史の大きな流れとして家内領域と公共領域との再統一があることが見えてくる。

4.脱近代の方向性を、家内領域と公共領域との高い段階での再統一として捉える意義

1 解放への大局的・長期的展望が得られる

 私は、以上のように考え、整理することで[遠山2021:38-46]、さまざまな運動が、歴史的状況、立場、課題に違いはあっても、個人の自立やヨコの連帯を構築するかぎりにおいて、「家内領域と公共領域をより高い段階で統一する」という大きな方向性ではつながっていることが理解できた。私自身もそうした壮大な歴史過程の中にいる感覚が得られ、長期的で広い視点から見た解放への展望や信念を、ある程度、持てた。また、それは、さまざまな、時には対立する立場や運動があってこそ成し遂げられるものなので、自らを主張しつつも、他人を理解し、対話・反省をしなければならないと感じた。

2 「脱近代」をめぐるさまざまな議論の問題点を明らかにしつつ、整理できる。

 このような見取り図によって、「脱近代」をめぐる、以下のさまざまな議論の問題点も整理できる。
 (1)両領域の統一という大きな方向性では協力できるのに、必要以上に対立する問題点。逆に、「マイノリティを含めた個人を単位とし、国家や家族を超える」という大きな目標を見失うという問題点。
 (2)狭義の「近代」からの脱却だけに注目して、資本主義の支配をめぐる対立(民主と反民主との対立)を軽視する傾向。たとえば、「家族賃金(年功制)をなくして、個人単位にする」ことには、資本主義の搾取を強化する方向と克服する方向の2つの方向性がある(そもそもその2つでは「家族賃金(年功制)」「個人単位」という言葉の意味自体が異なる)。しかし、左翼やフェミニズムの中には、その区別を軽視し、その結果、新自由主義に対する評価が甘くなっているものが見られる。
 (3)逆に、民主と反民主、労資の対立だけに注目して、「近代」を相対化することに消極的な傾向。
 (4)図の左右に書いた、近代における公共領域の論理(個人、理性、男性性、文明など)と家内領域の論理(相互扶助、感情、女性性、自然など)とを弁証法的に統一するのではなく、切り離して理解し、片方を一面的に美化し、もう片方を一面的に否定する傾向。日本の左翼やフェミニズムの中には、資本の側が言う「能力主義」を一面的に美化したり、エコロジカル・フェミニズムを否定したりする人々もあるが、こうしたことも、新自由主義に対する対抗力を弱める。
(以上の(2)~(4)については[遠山2020]で詳しく述べた)

5.人権同士の相互関係とマジョリティにとってのマイノリティの人権の意義

 上のような変革を進めるためには、人権どうしの相互関連性を捉えること、とくにマジョリティが、マイノリティの人権は自らにとっても重要であることを理解することが重要である。

 より高い段階での統一が実現する歴史的過程では、さまざまな運動やさまざまな人が、広く長期的な視点で協力しあうことが必要になる。そのためには、さまざまな人権が相互に深く関連してしあっていることを認識することが必要になる。上の(2)~(4)の弱点も、資本主義と家父長制(性差別)とを二元的に捉えたことから生じているので、その両者について、相対的には独自性を持ちつつも相互に結びついたものとして統一的に捉える必要がある。すなわち、(2)の点について言えば、家族や国家の枠を乗り越えようとしても、それが資本主義の論理に対して民主的変革を伴わない限り限界がある。(3)の点について言えば、家族や国家の枠にとらわれていては、いくら資本主義に反対し、民主主義を求めても限界がある。(4)の点について言えば、相互扶助なしの個の自立や、個の自立の相互扶助を求めても、資本主義や家族、国家を乗り越えることはできない。また、環境保護と人間の人権保障・女性解放も相互に関連していることを認識することが必要である(社会的エコロジー、エコロジカル・フェミニズム)。それによって、エコロジーに関心を持っている人が、そのためにも人権やフェミニズムの観点を持つ必要があることがわかる。

 とくにマジョリティがマイノリティの人権は自らにとっても重要であることを理解することが重要である。マイノリティを含めた個人の人権を要求する運動でなければ、国家や家族、資本主義のあり方を根本から変えることはではないないので、マジョリティの人権も十分には保障できない。たとえば、男性にとって「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」(フーリエ)ことを認識することは、男性がフェミニズムを支援し、自らの「特権」をなくそうとする重要な動機の一つとなる。それは、単に男性特有の「生きづらさ」とジェンダー平等との関係を理解するだけでなく、よりトータルに自らの被抑圧性とジェンダー平等との関係を捉え、フェミニズムや男性特権の克服により強くコミットメントすることに結びつく[遠山2019;遠山2022c]。

マジョリティがマイノリティの人権は自らにとっても重要であることを理解し、従来運動の主役になれなかったマイノリティや一般大衆の女性も運動の主体になることは、それ自体、彼女/彼らの人権保障にとって重要であるのみならず、運動の大きな広がりを作ることになる。また、そうしてこそ、社会の構造を根本的に変えることができる。『フェミニズムはみんなのもの』や『99%のためのフェミニズム宣言』は、まさにそのことを説いている[遠山2022b]。

実際、中国のフェミニズムとセックスワーカー運動との連帯も、家父長制が「良家の子女」から性的なものを排除する一方、性的な活動は「妓女」のすることだとして、両者を分断したこと抵抗としての連帯という面を持っていた。これは、人権相互の関連性にもとづくマジョリティからマイノリティへの連帯だと言える。また、そうしたフェミニズムは、社会構造を根本的に変える志向を持っており、官製の婦女連合会を批判したり、劉暁波を支持したりした[遠山2022a]

文献

伊田広行 1995『性差別と資本制:シングル単位社会の提唱』啓文社
水田珠枝 1985「家族の過去・現在・未来」『講座 現代・女の一生 4 夫婦・家族』岩波書店
遠山日出也 1998「近代家族論と歴史の進歩」『経済科学通信』88(PDF)
遠山日出也 2019「最近の男性学に関する論争と私」『女性学年報』40
遠山日出也 2020「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点:家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」『女性学年報』41
遠山日出也 2021「公私の両領域を統一する「脱近代」への道すじを考える:伊田広行「スピリチュアル・シングル主義」などを手がかりに」『女性学年報』42
遠山日出 2022a「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動:2000年以後、両者の連帯に至るまで」小浜正子・板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』京都大学学術出版会
遠山日出也 2022b「書評 シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由訳『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院、2020年)」『女性学』29
遠山日出也 2022c「女性解放の男性自身にとっての利益をどう捉えるか:「女性解放の程度は社会の一般的解放の尺度」という関係に着目して」『女性学年報』43
遠山日出也 2023a「男性が特権/差別を克服するために――被抑圧者の解放と自らの解放との結びつきを捉える」『エトセトラ』10
遠山日出也 2023b「新自由主義とエコロジーへのフェミニズムとその周辺の対応について――公私の両領域の高い段階での再統一という観点からの検討」『女性学年報』44
落合恵美子 1985「〈近代家族〉の誕生と終焉」『現代思想』13(6)→1989『近代家族とフェミニズム』勁草書房
―― 2019『21世紀家族へ[第4版]』有斐閣