1審・原告最終準備書面要旨(館長雇止め・バックラッシュ裁判)

 館長雇止め・バックラッシュ裁判(原告・三井マリ子さん)の原告最終準備書面(2007年6月提出)の要旨を書いてみました。しかし、以下の文責はすべて遠山日出也にあります。
 正確には「原告最終準備書面」の原文をご覧ください。
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 要旨は「簡略版」もあります。こちらを見てください。どちらかというと「簡略版」の方が筋がつかみやすいです。また、「第6 組織体制の変更に名を借りた原告排除」については、「明らかにされた豊中市の陰謀」に簡潔にまとめてあります。
 なお、わかりやすいように、被告側の主張を朱色で表示しています
 また、便宜上、西暦に統一して記述してあります。敬称は基本的に略しています。

第1 原告と被告財団の雇用契約
第2 館長としての実績
第3 地方自治体行政の通常のあり方からは到底考えられない組織体制の変更
第4 原告排除の真のねらい─バックラッシュ─
第5 もうひとつの狙い
第6 組織体制の変更に名を借りた原告排除
第7 被告豊中市の責任
第8 原告の蒙った損害

第1 原告と被告財団の雇用契約

1 当然更新の合意のある雇用契約

 被告らは、原告との雇用契約は「期間満了により当然に終了した」と主張する。しかし、本件雇用契約は、当然更新の合意のある雇用契約であり、期間の満了毎に当然更新を重ねてあたかも期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態にあったものである。

2 期間の定めとその更新、解雇制限法理の適用

 (1)最高裁東芝臨時工判決
 「一応期間が定められている契約であっても、当然更新さるべき労働契約であって、期間の満了ごとに当然更新を重ねてあたかも期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在している場合には、雇止めにあたっては、解雇に関する法理を類推すべきである」とするのは、最高裁東芝臨時工判決(1974年)により確立した判例となっている。
 (2)最高裁日立メディコ判決
 最高裁日立メディコ判決(1986年)は、有期雇用の労働者を解雇する場合と終身雇用の本工を解雇する場合とは合理的な差異があるべきだとするが、この判決も、「雇用関係のある程度の継続が期待されており、 契約が更新されている」場合に契約期間満了により雇い止めするにあたっては解雇に関する法理が類推されるとしている点では変わりがない。
 (3)このように、一応期間が定められている契約であっても、その実質によって解雇制限法理が適用されることは確立した判例であり、被告らの主張するような就業規則や雇用通知書の記載のみによるべきではなく、その実質によるべきである。
 上記の2つの最高裁判決などに従って本件について述べると、以下の3〜9のとおりであり、原告と財団との雇用契約は、当然更新の合意のある雇用契約であり、期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態にあったと言える。

3 原告の募集・採用手続

 (1)募集・採用手続きは「比較的簡易」なものではなかった
 原告は、全国公募により約60名の応募者の中から、第一次論文選考と第二次面接選考を経て採用されたものであり、募集・採用手続きはけっして簡易なものではなかった。これは、「比較的簡易な採用手続き」(前記日立メディコ事件最高裁判決。面接で健康状態や経歴や趣味などを聞くだけで採用を決定した)ではない。
 (2)常勤館長の採用の場合との比較
 原告の募集・採用手続きより、むしろ原告の後任の常勤館長の採用時の手続きの方が、論文選考もなく、ずっと簡易である。
 (3)募集・採用にあたっての館長の位置づけ
 また、館長募集要項は、応募資格として「男女共同参画社会の実現について活動の実績があるとともに行動力や情熱がある‥‥人」を求めており、被告らが主張するように「設立時から立ち上げ段階の一時的なもの」「看板」「動く広告塔」としての募集したものではない。他の応募者もこのような話を聞いたことはない。

4 原告と被告財団間の雇用契約は短期的有期契約ではなく、当然更新を前提としていた

 (1)雇用通知書及び就業規則
 館長募集要項には「採用期間」として、「2001年3月31日まで」と書かれているが、これは、すてっぷ開設の4カ月後であり、これは当然更新の合意のもとに原告は財団に採用されたことを示している。また、雇用通知書には、雇用期間が延長された場合の労働条件も記載されている。
 (2)更新手続きは形式的なものであった
  更新手続きは、3回の更新とも、更新前に豊中市の人権文化部長が「来年も続けていただけるでしょうか。ぜひお願いします」と言うだけのものであった。
 (3)当然更新を示す言動
 豊中市の助役も、「少なくとも4年は頑張って下さい」との発言を繰り返していた。実際にも、原告は、2002年4月に豊中市にアパートを賃借し、長期にわたって仕事ができる環境を整えた。
 (4)被告財団においては他に雇い止めの前例がない
 (5)被告財団自身が当然更新を認めていた
 とよなか男女共同参画推進財団の山本事務局長(市からの派遣職員)は、非正規職員の雇用期間を制限しようとした際、「一年ごと」というのは「採用形式」にすぎないと述べていた。これは、被告財団自身が当然更新を認めていることにほかならない。
 (6)原告の労働条件も、当然更新を前提とするものである
 館長就業規則では、8年度目以降の年次有給休暇の日数まで規定している。

5 館長職の寄付行為、事務局組織・事務分掌規則による位置づけ

 (1)寄付行為
 被告らは「非常勤館長職は設立時からの立ち上げ段階の一時的なものだった」と言うが、 館長職は寄付行為(財団法人の根本規則)の変更をしなければ廃止できない職である。
 (2)事務局組織・事務分掌規則は館長常勤化以降も変更がない
 「事務局組織・事務分掌規則」によると、館長職の職務内容は、館長常勤化以降も変更がない。この点からも、すてっぷ館長は「設立時からの立ち上げ段階の一時的なもの」ではないことがわかる。

6 すてっぷの基本理念、基本的機能と館長としての原告の採用

 すてっぷの基本理念としてうたわれた「女性と男性の構造的な関係の変革」「ジェンダー問題の解決」のために、館長として原告が採用された。これは、短期に実現できるようなことではない。

7 すてっぷ館長は「設立時から立ち上げ段階の一時的なもの」ではない

 (1)被告らの主張
 被告らはすてっぷ館長は「設立時から立ち上げ段階の一時的なものと考えられていた」のであり、「すてっぷの看板役」だったと主張する。しかし、被告らは、館長は「事業展開の先導的な役割を果たす」とも言っており、その主張とは矛盾する。
 (2)乙3
 被告側の乙3号証は、公募にすると「市の姿勢のアピール」ができるなどと書いてあるが、これは、館長職の職務や位置づけについての文書ではない。
 (3)すてっぷ館長は「設立時から立ち上げ段階の一時的なもの」だと考えられていたことは一度もない
 この点は、上のから理解できるし、第1次・第2次の山本試案も、A案では、2008年度移行を含めた最終体制であっても館長は非常勤となっている。

8 原告の館長としての仕事からも、すてっぷ館長は「設立時から立ち上げ段階の一時的なもの」ではなく、単なる「象徴」や「看板」ではない

 次の「第2 館長としての実績」に述べるとおりである。むしろ常勤館長になってから、男女共同参画の仕事ができない仕組みになったのである(桂現館長[当時]の証言)。

9 他の女性センターの館長

 2005年現在、他の女性センターの館長も45%が非常勤であり、非常勤館長であるからといって「設立時から立ち上げ段階の一時的なもの」だとは言えない。

第2 館長としての実績

1 実績

 原告は、館長として以下のようなすぐれた実績を上げてきた。
 (1)すてっぷ出前講座‥‥市内の団体やグループの求めに応じて地域の中に出張しておこなう講座である。女性問題に取り組む団体だけでなく、自治会や老人会、学校、私企業など広範な市民を対象におこなった。
 (2)ジェンダー問題講座‥‥企画だけでなく、講師・司会もつとめた。
 (3)講座「世界のフェミニズム」‥‥身の回りの問題がいかに世界共通のテーマであるかを考えるものであった。
 (4)英語でエンパワーメント‥‥市民の外国語習得への要求と結びつけた女性問題講座であった。テキストも手作りで作成した。
 (5)「北欧の風をあなたに」‥‥原告が自らのつながりを生かして、ノルウェーの女性企業家や外交官などを招いておこなった。準備のための費用は原告が自腹を切った。
 (6)スカンジナビア政府観光局との共催セミナー‥‥このつながりも、原告の努力によるものだった。
 (7)ノルウェー初の女性の党首の講演、男女平等オンブッド講演‥‥こうした海外要人の講演では、予算節約のため、原告が常に通訳をつとめた。
 (8)学校や企業とのタイアップ
 (9)女性議員との懇話会、市民との協力‥‥女性議員の超党派の懇話会開催にこぎつけた。また、すてっぷ開設に向けて力を発揮した市民とすてっぷとが再度協力し合えるように下ざさえをおこなった。
 (10)ポスター展‥‥ポスターの翻訳・解説も原告がおこなった。
 (11)映画「ダナーとその娘たち」‥‥これは、デンマーク初の女性シェルターができるまでの話であるが、原告自ら監督の自宅に行って買い求めた。

2 原告による上記事業の継続性と雇用契約の当然更新

 上記の各種事業は、2004年以降も継続的に行われていくことが予定されていた。
 (1)(2)(3)の各種講座は継続性が必要である。企業や学校とのつながりも、こうした講座を通じて生まれたのである。(4)の英語の習得も短期でできるものではない。(5)(6)(7)のような国際的な講演会も、共催・後援先などとの長期的な提携・協力関係が期待されていた。(8)については、2004年度から、学校の副教材づくりに対してすてっぷが協力することや、企業内でのジェンダーについての研修・学習の計画が始まることになっていた。(9)の継続の必要性は言うまでもない。(10)のポスター展については、市民から継続開催を求める感想が多く寄せられた。だからこそ原告は、2003年夏にも自費でフランスに渡航してポスターを収集していた。(11)の映画については、上映権獲得のための募金活動のプランまで浮上していた。
 このように館長としての原告の業務は、その性質上も実際上も継続性が予定されていたのであり、業務の内容からも、原告の雇用契約は当然更新されることが合意されていたと言える。

3 原告の上記活動は「設立から立ち上げ段階の一時的なもの」ではない

 原告の上記活動は、多様できわめて水準が高いのみならず、地域に根差した日常的で息の長い取り組みが予定されており、実際にもそのように取り組まれ、現に発展しつつあったのである。

4 原告の実績と指揮監督業務

 また、被告らは「職員の指揮監督という常勤館長の職務内容については、原告には実績がない」と主張するが、もともとその点は職務内容とはされていなかったし、原告が館長として上のような企画を遂行するためには、指揮監督力が必要だった。

第3 地方自治体行政の通常のあり方からは到底考えられない組織体制の変更

1 指定管理者制度の導入と中・長期的組織・職員体制のあり方

 (1)財団のもともとの考え方と実施時期はどうであったか? 2003年5月13日の時点では、財団は、「組織・職員体制のあり方」について「市と協議を始めたところ」だと言っていた。また、事務局長と市だけで決めるのではなく、「秋頃を目処に、理事・評議員の意見交換会を持つことを検討する」と言っていた。また、それは、「中・長期的(5 年から10年)」展望を持っての検討であった。すでに作成されていた第1次山本試案も、長期計画の案であった。
 (2)また、2003年6月地方自治法の改正が公布され(9月施行)、指定管理者制度が導入されることになった。市や財団が組織・職員体制のあり方を検討する際に、この指定管理者制度が視野に入らないことはありえない。
 (3)被告らは「2004年度に組織体制の大幅な変更が必要不可欠だった」と主張する。しかし、豊中市が指定管理者制度に対応して財団のあり方の検討を始めるのは、2004年7月以降であり、2003年秋頃には市の方針は決まっていなかった。それゆえ、2003年秋の時点では、以前からの予定どおり、理事や評議員の意見交換に止めておき、指定管理者制度についての市の方針が決まるのを待って、組織・職員体制の検討を始めるのが通常である。
 ところが、2003年10月に、(1)で述べたような「中・長期的展望を持った財団のあり方の検討」や(2)で述べたような「指定管理者制度の導入」とは離れて、翌年度から「非常勤館長職を廃止する」「事務局長職・館長職を一本化し、組織運営の全体統轄者として位置づける」ことだけが決められた。これは、2003年5月13日以降に特別のことがあったことを示している。

2 「財政の悪化」「補助金の予算要求の具体化」との主張に対して

 (1)「財政の悪化」についての被告らの主張とその理由がないこと
 ア.被告らは、組織体制の変更を2004年度に実施することが必要不可欠だった理由として、「市の財政悪化のため、プロパー化を先送りすれば、予算措置は困難になった」ことを挙げる。
 イ.財政とは関係がなかった。なぜなら──
 (ア)市は、別のところでは、「人件費は派遣職員より常勤プロパーの方が低くなる」と主張しており、被告らの主張によっても、「財政」の問題は2004年に組織体制の変更を実施する理由にならない。
 (イ)本郷(豊中市人権文化部長)らは「人件費は検討していない」と証人尋問で答えている。
 (ウ)2005年の評議員会でも、上田課長は「今回の組織変更は、財政変更のために、館長と事務局長を兼任したのではありません」と言っている。また同じ評議員会で出た、「従前の非常勤館長と事務局長」の人件費と「現在の常勤館長兼事務局長」の人件費の差額を問う質問にも、その場でも、その後も答えることができていない。
 ウ.以上から見て、「財政」の問題は、組織体制変更を2004年度に実施することが必要不可欠だった理由にならない。

 (2)通常ではありえない補助金予算要求の具体化としての職員体制の変更
 ア.被告らは「財政当局と、2003年10月上旬頃から、補助金を予算要求をするためにその具体化を協議して、10月中旬頃には非常勤館長は廃止することになった」と主張する。
 イ.通常ではありえない補助金の予算要求
 (ア)地方自治法の施行令、それを受けて定められた豊中市財務規則では、「給与費の内訳を明らかにした給与費明細書」を予め提出することを定めている。
 (イ)ところが、12月19日頃に財団から豊中市に提出された2004年度の予算要求説明書でも、「とりあえず、2003年度の体制のままで」予算要求をしている。このことは、財政当局との折衝がおこなわれていないことを示している。
 (ウ)予算要求に対する被告豊中市の主張とそのおかしさ
 a 豊中市によると、乙8号証で「考え方」を示したというが、乙8には金額が書かれておらず、2004年1月15日に内示が出るまでに提出した文書は、みな非常勤館長がいて賃金が支払われる内容である。つまり、その後の財政当局との予算額の折衝抜きにして内示が出たということであり、これは、通常ありえないことである。
 b 豊中市は「一般的に予算要求事務とは、要求時に全てが把握できているものばかりでない」と主張するが、市は、その場合も「財政当局との折衝を重ねて‥‥査定案として完成されていく」と言っており、今回おこなわれたのは、豊中市の主張する「一般的な予算要求事務」からもありえない。
 c 財務当局とは別の予算要求の方法もありうるとしたら、市長・助役の「懸案事項」である。しかし、市は「懸案事項にはあげていない」と言う。これは、つまり、「懸案事項」にあげるまでもなく決まっていたということである。
 ウ.豊中市財務規則第5条、6条違反
 豊中市財務規則では、「給与費の内訳を明らかにした給与費明細書」を記した予算要求説明書を財務部長に提出しなければならないとしており、被告らの行為はそれに違反している。

 (3)予算確保の目処は10月中旬についていたから財政当局への説明は形だけ
 ア.被告らの主張によれば、2003年10月中旬頃には「組織変更に伴う予算確保の目処もついた」ので、常勤プロパー事務局長候補者のリスト作りをおこない、10月20日頃に「候補者の一覧を市長にも示して了承を得て」、11月初めには「候補者打診」を始めたという。
 イ.本郷陳述書の予算要求説明書の流れ(略)
 ウ.イによると「財務課に組織変更の『考え方』を説明」したのは11月中旬であり、「予算確保の目処もつき」、「候補者打診」も始まってからのことである。
 つまり、財政当局への補助金の予算要求については形だけの手続きが踏まれたにすぎず、 本件、組織体制変更に名を借りた原告排除については、市長が決めたのである。
 エ.乙8にもない事業課長のプロパー化についても、「市長・助役に説明し、了承を得た」という。

3 「2004年4月実施が必要不可欠」とする被告らの主張には理由がない

 (1)「組織体制の変更は2004年4月実施が必要不可欠」とする被告らの理由は以下のとおりである。
 @派遣職員の事務局長が市に復帰する時期
 A財政悪化によるプロパー職員の増員は先送りできない
 B男女共同参画計画運用開始の時期である
 C行革の方針により派遣職員の体制見直しが必要である

 (2)上記の@〜Cはいずれも理由がない。
 Aに関しては、すでにで述べたとおりである。
 ア.@の派遣職員の事務局長が市に復帰する時期に対しては、
 (ア)市からの派遣は3年から5年に延長できる規定が法律にあるので、山本事務局長の延長は2006年3月まで可能なのである。豊中市は、山本に延長の打診はしたと言い、山本は「かりに1年延長すると、もう1人の派遣職員と同時に帰ってくることになり、2人いっぺんに戻ってくることになるので、支障が出る」と言うが、山本についてだけ2年延長すればいいだけの話であり、理由にならない。
 (イ)他に事務局長を市から派遣することもできる。その適任者は、かりに女性職員に限っても10人近く存在していた。しかし、豊中市は、そのことについて、具体的な検討や打診をしていない。
 イ.Bの点に関して言えば、常勤館長兼事務局長が男女共同参画の仕事をしたのは2004年4月、5月のみであり(桂証言)、理由にならない。
 ウ.Cの点について言えば、市は市派遣職員の減数目標を2005年度としており、乙8では、そもそも2004年度は市派遣職員の減数をしていない。

 (3)指定管理者制度導入を前にした2004年度実施はおよそありえない。
 指定管理者制度導入のような大きな変化を前にして、かつ市が2006年度までの間に「すてっぷ」をどうするのかについての方針を決めていない段階である2003年度にあっては、少なくとも2004年度から2006年度からまでは従来どおりとし、組織・職員体制は動かさないというのが特別の事情がないかぎり普通である。
 また、大きな変化を前にした状況においては、仮に組織・職員体制を動かしたとしても、 柔軟に対応できる組織・職員体制をとっておくことが通常であり、「雇用関係を解消しやすい(と被告らが考えている)」非常勤館長のままにしておくことが普通である。
 ところが、市は2003年に非常勤館長職廃止を決めてしまった。これは、被告らには特別の事情があったからである。

4 市長が決める館長人事

 (1)豊中市人権文化部長・本郷は「館長人事は市長の意向も働く。財団の補助金についての予算案を議会に提出する際、どなたが館長か、市長が了承していない方を議会に上程するというのは、今後の議会運営からもいろいろ問題が出る」と言っている。
 2004年度の予算審議において「どなたが館長か、市長が了承していない方」のままでは問題が出るのなら、予算額抜きに原告排除のみが進行するのもありうることである。「今後の議会運営にもいろいろ問題が出る」から、非常勤館長から原告を排除したのであり、常勤館長についても、原告を採用することは想定外だったのである。
 (2)その市議会では、男女共同参画審議会の人選さえ問題にされる状況があった。 だから、豊中市には原告を排除することが必要だったのだ。
 (3)ア.本郷は、2003年10月20日、常勤プロパー事務局長候補として10人位リストアップしたものを市長に見せて、「それで当たれという了承のもとに打診した」と述べている。
 イ.また本郷は、非常勤館長職の廃止は、市の「トップの判断(意向)だ」と説明している。
 ウ.市長が了承の下で候補者打診を実行することになったのが、2003年10月20日であり、 そうでなければ、10月中旬に「予算確保の目処」がつくことなどありえない。

5.組織体制の強化には「なっていない」本件組織・職員体制の変更

 (1)実際に常勤館長兼事務局長の職にある桂館長が、本件組織・職員体制の変更は、 組織体制の強化には「なっていない」と証言した。しかも、これは「仕組み」によるものだと述べた。
 (2)桂館長は、自分には予算も職員もつかず、仕組みとして「男女共同参画の仕事」をさせてもらえなかったと述べている。
 (3)桂館長は、やりたかった男女共同参画の仕事ができないままに2007年3月に退職し、現在も後任は選任されていない。男女共同参画行政は弱体化したのでり、バックラッシュ勢力の思うつぼになった。

6 原告の実績からも非常勤館長職廃止による雇止め・常勤館長不採用は理由がない。

第4 原告排除の真のねらい─バックラッシュ─

 被告らによる原告排除は、バックラッシュ勢力の攻撃に被告らが屈服した結果である。

1 被告豊中市並びに同財団の男女平等に対するバックラッシュ勢力への屈服

(1)真の男女平等を実現するための世界的取り組み
 (略)
(2)日本での取り組み─男女共同参画社会基本法の制定・条例化
 (略)
(3)バックラッシュ勢力の全国的動きと豊中市への攻撃
 ア 男女平等推進施策に対して
 真の男女平等を推進するための諸施策に対して、2001年以降バックラッシュと呼ばれる攻撃が本格化した。ことに、地方議会で男女共同参画基本条例の制定が進む過程で激しい攻撃が繰り返されてきた。
 そのねらいは、女性差別撤廃条約や男女共同参画社会基本法の精神に相反し、社会的文化的につくり出された男女の特性を生まれながらの特性であるかのように強調し、社会に厳然と存在する男女差別を「特性」の名のもとに覆い隠そうとするところにある。
 その手法の特徴は、攻撃する事項について自分たちの都合のよい言葉を抜き出し、それをねじ曲げ、あるいはすりかえて使って、世論操作をすることである。たとえば、「男女共同参画・ジェンダーフリーは、フリーセックスを奨励し、性秩序を破壊する」と言うなどである。
 イ 豊中市におけるバックラッシュ攻撃
 豊中市におけるバックラッシュ攻撃は、市長が男女共同参画推進条例制定の意向を示した直後の2002年7月頃から、条例制定が決定された2003年10月頃までに集中している。
 (ア)すてっぷ貸室申込みをめぐって
 (イ)チラシ等による攻撃
 (ウ)市議会等での攻撃
 (エ)すてっぷ、すてっぷ館長三井マリ子に対する攻撃
 (オ)すてっぷ図書に関する攻撃
 (カ)豊中市男女共同参画推進条例制定に向けての攻撃

2 本件雇止めおよび採用拒否はバックラッシュ勢力との密約によるものであり、違法でる。

(1)バックラッシュ勢力を裁判では「市民の声」と言い繕う被告ら
 ア.バックラッシュ勢力が問題とされていることは認めた被告
 被告らは「男女平等の推進を阻もうとする勢力の動きが世界的にバックラッシュと呼ばれ、日本においても問題とされることは認める」という。
 イ.「市民のさまざまな声」との被告らの言い繕い方
 しかし、被告らは、裁判では、豊中市男女共同参画推進条例制定の過程で、豊中市においてバッ クラッシュ勢力によって被告らが攻撃を受けたとは評価しないという。被告らは、原告が指摘した事実のいくつもを認めるが、「市民のさまざまな意見や考え方があったから、根気強く説明し、理解を求める」対象だったと述べている。
 ウ.単なる「市民ではない」と危機感を抱いていた被告ら
 被告らはかつては、バックラッシュ勢力について、単なる「市民ではない」と明言していた。すなわち、2002年12月当時、「バックラッシュ勢力の条例制定に向けた攻撃がなされている、危機感を共有してほしい」と財団の理事・評議員、市民らに呼びかけていた。@その文書は、「豊中市とすてっぷへのバックラッシュ(ある勢力の攻撃)の件」と題する財団名の文書で、バックラッシュの動きを「『市民』を名乗っているが、特定のグループに属したきわめて組織的活動」だと述べていた。A同文書は、「このような(バックラッ シュの)内容が『市民の声』にされてしまうことを‥‥憂慮」するとも述べていた。Bバッ クラッシュ勢力からの不審な電話に関して、山本事務局長は「完全な右翼の活動でしょうね」とメールで述べていた。
 エ.「市民のさまざまな意見」に一転
 被告らの認識が変わったのは、バックラッシュ勢力に屈したからこそである。 被告らが「根気強く説明し、理解を求めた」結果、条例が可決された形跡はまったくないことは、後で述べる北川議員の行動を見てもわかる。被告らはバックラッシュ勢力との取引を隠蔽するためには、バックラッシュ勢力を「市民」だと強弁するほかはないのである。
 オ.北川悟司議員の質問について
 被告らは、北川議員の質問について、「男女共同参画推進条例案の内容も明らかにされていない段階のものだから、『条例案批判』との原告の主張は誤り」と言う。
 しかし、提出される条例案は審議会答申に沿ったものになることは当然でのことあり、北川議員自身もそのこと前提にして質問している。また、前記の財団名の文書では、財団は、宇部市の条例のようになることを憂慮していたが、北川議員は、宇部市のような条例に賛成で、答申どおりの条例に反対することを明らかにしていたのである。
 被告らが、こうした議論の余地のない事柄も否定するのは、バックラッシュ攻撃への屈服を隠蔽するためである。

 (2)バックラッシュ勢力の攻撃により条例案上程を断念した被告豊中市
 ア.豊中市は、審議会答申を受けて、2003年3月議会に男女共同参画推進条例の条例案を上程することを予定してしたが、それを断念した。この点について、被告側は「準備不足だったからだ」と言う。
 イ.しかし、事実はそうではない。2003年2月には豊中市側も、「男女共同参画社会をつくる豊中連絡会」との会見で、「バックラッシュの力が大きかった」からだと言っていた。
 ウ.また、条例案上程断念後の理事会で山本事務局長は、条例反対運動について「豊中市が標的になっている。そのような状況のなかで条例を3月議会に諮りますと…」と述べているのである。
 しかし、この理事会の議事録からは、その部分が抜け落ちていた。そのほかにも2002年以降の議事録からは、「すてっぷへのバッシング」や「強い反対の動き」などの発言を消している。それは、バックラッシュ攻撃の中心人物であった北川悟司議員が、すてっぷ評議員に就任したことなどのためである。
 エ.北川悟司議員は、2003年5月、条例案が直接審議される総務常任委員会副委員長になり、すてっぷの評議になった。

 (3)被告豊中市トップとバックラッシュ勢力との密約
 豊中市のトップは、バックラッシュ勢力と条例案に賛成することの見返りに原告の首を切るという密約を交わしていた(5月下旬と推測される)。なぜなら──
 ア.条例案上程前の7月、人権文化部とバックラッシュ勢力が属する「新政とよなか」の議員とが記念撮影をおこなっていた。本郷部長は「断る理由がなかったから」だと言うが、本郷部長は、この写真入りの新政とよなかの『市議会だより』の新聞折り込み配布に抗議している。しかし、同じ頃の「原告は『主婦はIQが低い』と言った」という噂に対しては、むしろ原告の抗議を「条例審議前だから」という理由で抑えた。
 イ.それまで被告らは、条例制定のために「男女共同参画社会をつくる連絡会」と手を携えてきたが、密約成立後の6月ごろからは、態度が変わっている。(ア)6月には、 豊中市は、「男女共同参画社会をつくる連絡会」の行動をおさえるように言うようになった。(イ)財団の山本事務局長は、6月を最後に同連絡会のメーリングリストへの投稿をやめた。
 ウ.極めつけは、本郷は「三井は専業主婦はIQが低いと言った」という根も葉もない噂について、大町副議長に聞いたと言いながら、その噂の出所を確かめず、原告が副議長と面談するについての同行要請も拒絶した。さらは原告が副議長に会うこと自体を「止めよ」と言った。
 エ.(ア)豊中市は男女共同参画推進条例の9月議会提出を市民に公約していた。また、これまで市が提出した議案が不成立になった事実はなく、条例を否決されれば豊中市は体面がなくなる。そこで豊中市が体面を保つ方法としてとったのが、条例案を通す見返りに、 条例案を実行するすてっぷの長を首にすることであった。豊中市のトップとバックラッシュ 勢力の接触の中でこの密約は交わされた。
(ウ)a.男女共同参画推進条例が上程された9月議会において、本会議で、条例反対で北川議員らと軌を一にしてきた橋本議員は反対討論をしたにもかかわらず、自席に戻った後に自席から「この条例案は付託される総務委員会で十分な審議をしていただきたい」と追加発言をしている。このような発言のし方は異例のことである。これは、条例案成立について話がついていると注意を受けたためである。
 b.総務委員会ではバックラッシュ勢力の反対討論が次々とおこなわれた。北川議員も、総務委員会でも本会議でも反対意見を述べたにもかかわらず、採決の時はいずれも賛成するという不可解な行動をした。他のバックラッシュ議員も賛成した。本郷部長は「議員個人が反対でも、会派として賛成ならば、賛成に回る場合もある」と言うが、強固に反対を表明する北川議員などの場合は、採決時に退席するほうが一般的である。

 (4)ファックス事件の意味するもの──行政対暴力は行政の姿勢を腐らせる
 ア.北川議員が理事長をつとめる「教育再生地方議員百人と市民の会」の事務局である増木氏は、男女共同参画推進条例制定を「不本意」とした。
 イ.男女共同参画推進条例が可決されたは2003年11月15日、北川議員は、市役所閉庁日である土曜日の午後7時から10時まで、被告ら職員や原告に対して糾弾をおこなった。北川議員は、「いったいどうなんだ!」「市は帰れよ!」と怒鳴りながら、テーブルをバーンと強打して行政職員を叱りとばすなどした。
 ウ.これは、行政対暴力事件である。しかるに、豊中市はその恫喝事件に対して警察に通報するどころか、原告に関係者へのおわび行脚をせよと言い出す始末だった。北川議員はバックラッシュ勢力の「不本意」とする不満を豊中市にぶつけることで、密約の実行を迫る舞台を作ったのである。
 エ.バックラッシュ勢力は、「刑事告訴・告発を検討する」という催告書を原告に送ったり、理事長の自宅に電話までした。
 オ.ファックスという手段で送付したことに対して、山本事務局長と原告に始末書を書くことも求めた。これは原告から始末書をとることによって、原告が雇い止めさせる口実にしようとしたのである。しかし、当時は、事態が切迫しているからファックスを一部使用したにすぎない。また、 バックラッシュ勢力もファックスでこの文書を入手したわけではない。
 このことは、被告らが、バックラッシュ勢力に屈服したために、原告排除の口実を作って原告を追い詰めようとしたことを示している。

第5 もうひとつの狙い

 原告を館長から排しようとしたことについて、被告らにはもうひとつの狙いがあった。すなわち、被告らは、財団の非正規職員らを正規職員化させないために、就業規則を改めて雇用に更新回数に上限を設けてその雇止めをはかろうとしていた。
 けれども原告が館長職に在職していれば、これに反対する恐れが大きいと思われたので、 原告を館長職から排除しようとしたのである。

第6 組織体制の変更に名を借りた原告排除

1 組織体制変更の経過について

 略して、適宜、2で引用します。

2 密約の実行策としての組織変更案

 (1)組織変更と原告の解雇
 ア.被告らは、「すてっぷ」の組織強化のために組織変更をおこない、その結果原告の雇い止めをおこなわざるをえなかったと主張する。そして、この組織変更は、2002年頃から山本事務局長が中長期的ビジョンの必要性から作成した第1次山本試案、 第2次試案の延長線上で、乙8号証の組織変更案を作成しておこなったものだと主張する。
 イ.しかし、被告らがおこなった組織変更は、バックラッシュ勢力との密約実行のために作成された第2次試案と乙8を使って、組織変更の形を借りて原告排除をおこなったにすぎない。この組織変更案は、財政上のメリットもなく、組織強化にもなっていない。

 (2)山本第1次試案
 ア.2002年7月に作成された第1次山本試案は、中長期的なビジョン(2007年次まで)のものであった。また、課題を提示するにとどまり、課題を解決するための具体的な方向や組織変更案を決定するようものではない。
 イ.第1次山本試案には、課題を具体化する職員配置案も4案示されている。しかし、そのうち2案は非常勤館長を残す案であり、また4案とも、2004年における事務局長や事業課長のプロパー化は全く想定外であった。

 (3)山本第2次試案
 ア.首切り準備のために作成された第2次試案 被告らは、第2次試案を6月9日の事務局運営会議に提出して検討したと主張する。そして、原告は「館長にどういう人がいいかよね」などの意見を述べ、原告は組織変更案について十分知っていたと主張する。
 しかし、当日の議案書を見ても記載はなく、当日議論された形跡はない。山本自身、2004年2月の文書で「事務局長試案を資料提示」と記載しているだけである。さらに、資料には何年後に原告が雇い止めになるのかがわかる各案の添付もなく、議論のしようがない状態での資料提示だった。6月3日には、豊中市は、「男女共同参画社会をつくる連絡会」の行動をおさえるように市民に要請しており、それまでと態度が変わっていた。第2次試案は、被告らが首切り準備のために、原告にも「将来常勤化になる」というものを見せたというアリバイ作りを目的にしたものである。
 また、「原告が『館長にどういう人がいいかよね』と言った」という主張について言えば、もしそれが事実なら、原告がこの時点で組織変更や自らの退職について了解していたことになるが、とすれば、山本が、夏や11月に「館長が常勤になったら、第一義的には三井さんです」と言ったり、2004年1月に「(原告には隠れて後任探しをしたことについて) 私は三井さんを裏切りました」と言ったりしたことの説明が全くつかない。
 イ.第2次試案の特徴 第1次試案などでは、館長職についてはこれからの議論(理事会の決定など)に任されていたのに対して、第2次試案は、館長職について、非常勤嘱託から常勤プロパー化することを「決定」している。
 財団は、第2次試案は事務局長の私見にすぎないと強調する。しかし、(理事などに委ねるのではなく)こうした決定をすることは、豊中市の協調と同意なくしては、案としても作成できるものではない。また、山本事務局長も、証人尋問で、館長常勤化などについて、豊中市との合意の結果を反映して方向性が決められたことを認めている。
 つまり、第2次試案が最初に作成された5月25日には、密約の実行方法について密かに豊中市と山本氏が協議して、この試案を作成したのである。
 ウ.複数存在する第2次試案 被告らが「第2次試案」として提出した文書は複数存在する。
 エ.提出されなかった18頁もの第2次試案 被告らによると、その中には18頁もの案があるといい、提出も可能と証言しながら、実際には提出がない。したがって、被告らが第2次試案として証拠上提出したものは、被告らが実際に保管している文書の都合のよい部分のみを提出したにすぎない。
 オ.B−4案 豊中市が山本第2次試案として提出した文書には、他の文書ない「B−4案」の添付がある。これには8月30日の日付があり、この日は財団が豊中市に山本第2次試案を提出した日であるが、山本はB−4案の日付については証言を回避している。
 B−4案は、館長職一本化案であり、他の案にない事業課長補佐の記載がある。これは現実に2004年4月に実施したものに最も近く、被告らは、原告の首切りの目的に達せられれば、当初からこの案で行こうと考えていたと思われる。
 B−4案部分は、部長・課長・事務局長による原告排除のための具体化策についての秘密謀議の際に作成したので、表に出したくなかったのであろう。原告に渡す際にも、B−4案部分をわざわざ外して渡している。

 (4)B−4案つき第2次試案の作成日、提出日
 山本第2次試案は5,6月には出来上がっていたはずであるのに、豊中市に8月30日に提出している。この時期は、議会に再上程した男女共同参画推進条例案の議会対策で、事務方は超多忙であり、また土曜で市役所休庁日である。
 これは、5,6月段階で密かに協議して作成したが、密約の密行性のゆえに正式な提出の形を取らなかったと考えられる。議案発送を目前に、バックラッシュ勢力との取引・ 密約の実行策の事務方の最終決定のために、8月30日に日付を書き換えて提出したと考えられる。

 (5)8月30日は条例案の議会対策で超多忙時
 山本氏や武井男女共同参画推進課長の証言によると、山本事務局長は8月30日に試案を提出し、本郷部長や武井氏が部長室で説明を聞いたとする。それ以後、10月10日ごろ組織変更案が確定するまで武井氏と山本氏の2人が協議を重ね、「部長には最終的に意見は求めた」が、理事長に「報告」した以外は検討に加わったり、検討内容を知る者はいないという。
 すなわち、部長・課長・事務局長の3者間で、密かに組織変更の実行策を練ったのである。

 (6)乙8
 ア.決定までの被告市での協議 上のようにして武井氏と山本氏の2人が協議を重ねて、10月上旬には本郷も入って、 組織・職員体制の変更の中味が決まった。これが、「乙8号証」である。
 イ.決定された組織変更は、非常勤館長廃止による原告排除と事務局長プロパー化 (ア)乙8作成の目的は、「補助金を人権文化部が財政当局に予算要求するための考え方をまとめたもの」である。(イ)その内容は、第一に、「現館長は館長としての当初の目的は果たした」から「非常勤館長職を16年度から廃止する」ことである。すなわち、原告の排除である。第二に、事務局長プロパー化である。これは、「とよなか国際交流協会」との財団統合と指定管理者制度の導入を予定した組織変更案を実施する方針のためであり、「指定管理者制度の導入を予想できなかった」という豊中市の主張はおかしい。
 ウ.実際にはどうなったか (ア)形の上では、寄付行為の変更を避けるために常勤館長プロパー化になった。(イ)しかし、実態的には、常勤プロパー館長になった桂館長は管理運営の仕事しかさせてもらえなかったのであり、「事務局長プロパー化」という乙8で述べられたとおりになった。
 エ.乙8の整備計画表のおかしさ (ア)財団は「組織変更案は、財団の懸案事項として長時間にわたって検討されてきた」と主張している。しかし、これまでの案では、財団が2004年4月から現実に実施した館長プロパー化は、2案のみである。また、館長をプロパー化する案も、市派遣は合計3名となっており、被告らは市派遣が困難を言っているにもかかわらず、市派遣の減員はない。(イ)また、事業課長に関して言えば、乙8の整備計画表では、2004年度の事業課長は、市派遣となっている。しかし、被告らの主張や行動から見ると、実際は事業課長についての市派遣を考えておらず、プロパー化の予定と人材のメドをつけていたとしか考えられない。このように、館長についても、事業課長についても、「組織変更案は、財団の懸案事項として長時間にわたって検討されてきた」などということはない。
 オ.原告排除をどういう形でするかだけが問題だった
 結局、原告排除をどういう形でするかだけが問題だったのである。

 (7)手続きの異常性
 ア 密かに取られた手続き 乙8の組織変更案の策定・決定過程は、本郷部長の指示で、 武井課長と「すてっぷ」の山本事務局長の2人で、8月末以降、頻繁に策を練り、10月10日ごろ、部長の最終了解を取って決定したというものである。
 しかも、協議する場所についても、いっさい財団の建物は使うことなくおこなっている。
 密約の実行策としての組織変更の形をとったがゆえに、その策定・決定の手続きの過程でも、絶対の秘密を保持しなければならなかったのである。
 イ 被告財団を無視して進められた 第2次山本試案は財団事務局には示されていない。さらに乙8については、財団の山本事務局長以外は誰も知らずに方向性が決定され、評議員会や理事会での協議・合意は全くなくひそかに決定された。そして、財団の理事長よりも先に市長が了承した(10月20日)。財団の理事長も、ことを秘密裏におこなう必要性を知っていたからこそ、評議員会や理事会に諮らずに単独で了承した(10月30日)。
 ウ 秘密主義と周到性 被告らは、職員からも事態が漏れることを恐れて極秘に事をすすめており、被告らの秘密主義・周到さは異常である。山本事務局長は、6月9日に事務局運営会議に第2次試案の一部を資料として出した以外は、毎月の運営会議、全体会議、女性政策課との定期会議などの各種会議での協議を一切していない。その一方で、非公式に頻繁な協議をこっそりおこなって決定をしたばかりか、後任の選定や依頼、首切り通告を着々と実行に移していたのである。

 (8)組織体制強化にならない組織変更案の実施
 ア.財団が実際に実施した組織変更案は、新館長に男女共同参画の仕事を分担させるシステムとはなっておらず、組織強化ではない。
 イ.豊中市との密約によってバックラッシュ勢力は、男女共同参画推進条例の通過という「名」と引き換えに、原告の解雇と組織体制の変更の名で行われた「すてっぷ」の弱体化という「実」を手に入れたのである。

3 原告排除の意図に支配された組織体制の変更と不公正な選考過程

 (1)原告排除の意図に支配された組織体制の変更の経過
 乙8案の組織変更案作成以降の経過からも、財団の組織変更が原告排除のためにおこなわれたものであることは明らかである。
 ア.被告豊中市とバックラッシュ勢力との連動した動き
 まず、6月9日に山本が第2次試案を資料提示した直後の24日の原告の館長出前講座の発言について、バックラッシュ勢力は根も葉もない誹謗中傷を流した。また、11月8日に原告が組織 変更案を初めて説明を受けた直後の12日、北川議員らが原告らを糾弾した。
 すなわち、組織体制の変更のために、山本や本郷が何らかの動きを始めるのと連動する かのように、バックラッシュ勢力の原告に対する攻撃がおこなわれている。このことは、この組織変更が、豊中市とバックラッシュ勢力との密約にもとづくものであることを疑わしめる。
 イ.原告に対する情報からの徹底した排除
 組織変更について、原告は情報から徹底して排除されてきた。すなわち、密かに協議を続けた結果、10月中旬には予算確保のメドもつき、後任のリストも作ったのに、豊中市は11月8日になるまで組織変更について原告に何も知らせていない。また、11月8日も口頭で伝えただけで、乙8などは示していない。また、「館長と事務局長を一本化する」とだけ伝えて、事務局長一本化案であることを明示していなかった。だから、原告は「常勤館長に一本化する」案だと理解したし、原告だけでなく、理事長や副理事長も同じように理解していた。
 なお、被告らは、11月8日に原告が「仕方がない」と言ったと主張する。しかし、そんなはずがないことは、(1)本郷も「組織変更は最終的には理事会で決定する」と説明しており、その理事会も経ていない段階であること、(2)原告はその後、山本に組織体制の変更や館長について尋ね、山本は「第一義的には三井さんです」と言ったこと(このやりとりは山本も認めている)から明らかである。(3)また、10月20日の市長の指示は「それ(候補者の一覧表)で当たれ」ということであり、「原告の了解が得られれば」という条件付きのものではない。
 原告にようやく「事務局長に一本化して、館長を廃止する」と伝えたのは、豊中市が桂に事務局長就任の受諾を決意させた後の12月19日のことである。この時も、口頭で伝えたにすぎない。
 しかも、その案が、2004年1月10日の理事長・副理事長会議で「常勤館長に一本化する」 案に変更されたことやそれを正式決定する臨時理事会の開催日(2004年2月1日)が決まったことは原告に伝えなかった。原告がそれを知ったのは、臨時理事会の開催日を確認するファックスを送ったり、議案を見せるように自ら要求したからにすぎない。もしも原告が組織変更案の変更を事前に知ることができなかったら、常勤館長職に応募する意思を表明することすら不可能だっただろう。
 このように、原告に対して正確に情報を伝えないことは、原告が自らの身を守るためにしかるべき行動に出ることを妨げ、原告を排除する狙いがあったと考えられる。
 ウ.原告に対する裏切りを自認する山本事務局長
 山本は2003年7月ごろ、原告に「もしも館長が常勤になったらの話ですが、第一義的には三井さんですが、常勤は可能ですか」と聞かれた際に「無理よね」と答えた(以下の(1)〜(4)の数字は遠山が付けたものです)。
 しかし、原告がこのように答えたのは、(1)雑談の中での話だったこと、(2)館長常勤化は、あくまでも山本の試案であって、実現するかどうかわからないこと、(3)山本試案を首切り案として理解していなかったので、常勤は無理といっても、自分が職を失うとは思っていなかったので、全く軽い気持ちで答えたにすぎない。
 山本も、その時の様子を「会議ではない日常会話の中で」と理事宛の文書で書いている。しかし、山本は8月に人権文化部長にこのことを伝えており、山本は雑談を装って原告の言質を意図的に引き出したのである。
 その後、正式の会議で、常勤についての原告の意思確認は一切おこなわれていない(…(4))。ところが本郷は「日常会話でこそ、本音が出た」(証言)などと言って、このときの発言を唯一の根拠にして、原告排除を合理化していくのである。
 しかし、山本自身、原告の言葉を、原告の動かしがたい意志を表すものとしては受け止めていない。それは、11月8日に、原告に「(館長と事務局長を一本化した場合)第一義的には三井さんにお願いするということです」と述べていることからも明らかである。
 山本がそう言ったのは、自らの背信を取り繕おうとしたからである。その背信とは、館長常勤化の組織変更案を、正式のものとして原告に一度も説明したことがなく、常勤が可能かどうかについても正式の場で一度も説明したことがなく、原告を排除して、候補者打診を始めていたことを指す。
 そしてついに、2004年1月10日に、原告に問い詰められて、原告に問い詰められた際、山本は原告に「うそを言った」こと、「裏切った」ことを認めた。
 財団の事務局長という原告が最も信頼を置かなければならないはずの職員である山本事務局長が、原告に「うそを言った」・「裏切った」ことを認めたという事態は異常である。ここからも、原告の排除を至上命令とする外からの圧力(密約の存在)がうかがわれる。
 エ.桂に対する事実上の採用決定
 財団は、桂を「新館長」と事実上決定したことはないと主張している。
 しかし、桂の尋問その他から、豊中市は、情報を操作して桂に常勤館長への就任を決意させ、事実上の採用決定をおこっていたことが明らかになっている。  すなわち本郷や武井は、2003年12月には、原告の雇用継続の意思を隠して、桂に「三井さんは了解されている」などと言って、桂に就任要請を受けることを決意させた。同月22日には本郷と武井が寝屋川市を訪れ、担当部長からは桂退職の同意を取り付け、翌年1月の広報では桂の後任の募集まで行われている。
 2004年1月には原告が常勤館長職への応募の意思を明らかにし、2月1日の臨時理事会で、原告が候補者となる可能性が現実化した。しかし、2月9日、「豊中に行くことを保留にします」「三井さんが残りたいといっているのに行く気はありません」と言う桂に対し、本郷は「桂さんしかいない」と言い切って、桂に就任の決意を翻意させないようにした。
 そして桂は豊中市から就任要請を受ける過程で、「候補」であるという言葉を全く聞いておらず、「選考」があるということも認識していない。また、原告が面接を受けることも知らされていなかった。まさに桂にとって、面接を受ける以前に採用は決定していたのである。
 このような桂に対する事実上の採用決定は、原告に対する排除と表裏の関係にある。そして被告豊中市が、これほどまでの情報操作をして事実上の採用決定をしたのは、原告を排除することに組織体制変更の目的が存在したからである。

 (2)原告排除の意図に支配された不公正な選考経過
 財団は、選考過程は公正だったと主張している。しかし――
 ア.財団職員採用要綱違反
 財団職員採用要綱では、筆記試験と面接を要求しているのに、筆記試験をおこなっていない。要綱に違反してまで、より客観的な判定方法である筆記試験を行わなかったのは、不公正さのあらわれである。
 イ.本郷が選考委員の一人であること自体で、選考委員会は不公正である
 本郷は、2004年2月9日の時点で、なお桂に対し「あなたしかない」と言い切った人物である。本郷は、 1月に選考委員会が設置されると決まったとき、「もしも桂が不合格になるようなら、我々が辞表を出して済む問題やないというふうに、私は覚悟を決めました」と述べている。もしそれが本当ならば、2月9日に桂が常勤館長に就任することを保留にすると自ら言い出した時に、その翻意を受け入れていれば責任問題に発展することはない。ところが、なお本郷が桂に「あなたしかしない」と言って桂の翻意を防いだのは、選考委員会の結論を左右することなど本郷にとっては容易だったことを示している(この点についての宮地弁護士の解説)。
 実際、以下のような事情を考慮すると、選考委員会の結論を左右することは本郷にとって容易であった。
 (ア)選考委員を決定したのも山本・本郷らである。その結果、決定された選考委員5名のうち、1名は本郷自身であるほか、1名は原告に反感を持っていた人物、1名は今回の裁判で被告らを擁護するために合理性を欠く書面を出してきた人物(吉井理事)、残りの2名は、2月1日の理事会に欠席したのみならず、2002年以降に一度も理事会に出たことがない理事であり、「すてっぷ」の問題を自らの意思で判断しようとする姿勢が乏しい人物と考えられる。
 (イ)理事にはすでに先入観を持たせていた。すなわち1月に山本と武井は、各理事を訪問して、インターネット上の「豊中市に抗議の要請」という情報に対して弁明をおこなっており、各理事らにあらかじめ被告らの立場を説明することによって先入観を持たせていた。2月1日の理事会の欠席者は、その時の原告の発言を聞いていない分、出席者よりも原告に対する反感を強く抱いていたであろう。
 (ウ)面接後の意見交換の場で、影響力を行使しうる。上述のように、本郷は「我々が辞表を出して済む問題やないというふうに、私は覚悟を決めました」と述べているのだから、面接後の意見交換において万一原告を推す選考委員が出てくれば、それこそ自らの首をかけて桂擁護に回ったであろう。
 ウ.吉井報告書の内容は原告への偏見に満ちたものである
 (ア)選考のための資料という重要な点について事実に基づかないこと(選考対象者の「応募動機」の資料が配られたという)を記載しており、自らの記憶にもとづくものかどうか疑問を抱かせる。
 (イ)原告に対するマイナス評価はいいがかりであり、桂に対してプラス評価も、その点は、桂が原告より明らかに優れているとは言えない。にもかかわらず、桂の評価が明らかに高いと断定する吉井は、原告に対する偏見があるか、被告を擁護しなければならない立場にあるとしか考えられない。
 (ウ)吉井は、桂に「内定」していたことを知らなかったというが、本郷は理事会で「市長が承認した人に打診したところ、了解を得られたのは一人だけ」と説明しており、内定であると受け止めるのが当然であるし、当日の理事の受け止めもそうだった。
 エ.桂が原告よりも常勤館長にふさわしいとする合理的な理由は見当たらない
 (ア)原告が館長として在籍した実績については、理事会の資料でも高く評価されている。
 (イ)山本は、二度にわたって「第一義的には三井さん」と言っていた。山本や本郷は常勤館長の候補者から原告を外した理由を、原告は常勤が無理だからということに求めていたが、原告は、常勤館長への就任を希望するという意思表示を2004年1月の時点でしていた。その一方、桂は「三井さんが残りたいといっているのに行く気はありません」と明言していたのだから、原告を常勤館長に就任させることができない理由はおよそ見つからない。
 (ウ)選考委員会の合否の判断の過程も、原告より桂が常勤館長にふさわしいという結論を導き出せるものではない。たとえば、桂が評価されている「市民主体の活動」「地域密着」という点については、理事会の資料でも原告の館長時代の実績が評価されており、面接でも具体的に答えている。
 (エ)財団は「桂が地域密着型の取り組みを考えている」と評価しているが、桂に男女共同参画の仕事をさせたのは最初の2カ月だけである。

第7 被告豊中市の責任

1 すてっぷの人事を掌握する被告豊中市

 すてっぷを管理運営する被告財団は、形式上は豊中市とは別法人である。しかし、すてっぷの人事は、予算を握る豊中市が全面的に掌握しており、財団人事の最高責任者は市長であった。この点は、財団の高橋理事長の証言からもわかる。

2 原告排除にあたって、被告豊中市が果たした役割

 原告排除にあたって中心的役割を果たしたのは豊中市である。また、組織変更案作成も、候補者の選任も、候補者への打診も、形式的な選考手続きも、豊中市が主導した。

第8 原告の蒙った損害

 原告は館長として多様で水準の高い実績を上げた。しかるに、被告豊中市と被告財団はバックラッシュ勢力に屈して原告の雇止めと採用拒否をおこなった。
 原告の被った精神的苦痛は筆舌に尽くしがたく、慰謝料は1000万円をくだるものではない。弁護士費用200万円との合計1200万円の支払い義務は免れない。

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