館長雇止め・バックラッシュ裁判の控訴人第5準備書面(2009年4月提出)の要旨を書いてみました。しかし、文責はすべて遠山日出也にあります。
正確には「控訴人第5準備書面」の原文(PDFファイル)(110ページ)をご覧ください。
「控訴人第5準備書面」は、控訴人側の総まとめの書面である「控訴人第4準備書面」(全文│要旨)に対して、被控訴人側が反論したのに対して、さらに反論したものです。
便宜上、西暦に統一して記述してあります。敬称は基本的に略しています。
わかりやすいように、被告側の主張を朱色で表示しています。
第1 被控訴人市準備書面5・35頁〜60頁について
第2 被控訴人らの、控訴人主張「組織変更を2004年度実施の緊急性はなかった」への反論について
第3 控訴人の「中・長期的展望でおこなう筈の組織変更に、指定管理者制度を無視して、控訴人排除を優先させた」との主張に対する反論について
第4 控訴人の「山本は豊中市と協議して第2次試案を作成していた」、「組織変更は、専ら控訴人排除のためで、既定方針であった」との主張についての反論(略)
第5 財団に自主独立性がないこと
第6 本件採用拒否の違法性について
第7 被控訴人市第5準備書面のうち、控訴人に対する人格権侵害の事実はないとの主張に対する反論
第8 被控訴人財団準備書面3うち、控訴人に対する人格権侵害の事実はないとの主張に対する反論(略)
第9 被控訴人豊中市の第5準備書面のうち、豊中市はバックラッシュ勢力の攻撃に屈していない、との主張に対する反論
被控訴人の豊中市は、被控訴人準備書面5において、「人権文化部長が市長に財団事務局の組織変更についての内諾を得て、予算確保のメドを得た行為は、予算要求手続きとは別次元のことである」と主張するに至った。
↑(1)しかし、一審では、ほかならぬ豊中市自身が「財政当局と折衝して、予算確保のメドを立てた」と主張してきた(一審での豊中市の準備書面1〜4)。
ところが控訴審で明らかになったのは、財政当局との折衝はなされていないということである。財政当局には、現行(=当時の)体制のままの予算要求説明書しか提出していないので、折衝しようもない。そして、2004年2月2日に山本事務局長が、メモに基づく口頭の説明をしただけで「予算が確定」したという。
すべては「別次元」の、2003年10月20日に「人権文化部長が市長に財団事務局の組織変更について内諾を得て、予算確保のメドを得た」行為のみであり、それにつきる。
(2)豊中市は、一審では、2月になってから理事会を開催した理由は、「予算が確定(1月中旬〜2月頃)しなければ、その前に理事会を開催しても、予算の裏付けがなく、意味がない」からだと言ってきた。また、館長を公募にしなかったのは、「その時点で公募しても、4月スタートに間に合わない」からだと言ってきた。
豊中市は、一審では、(1)のとおり、実際にはやっていないにもかかわらず、「財政当局との折衝してきた」という主張を繰り返してきた。これは、理事会の開催を遅らせることによって、「適任者を確保」したうえで、「公募では間に合わない」時期に理事会を開催することを合理化するためである。
実際には、2月1日に理事会が開かれた翌日の2月2日になって初めて、山本事務局長によるメモと口頭での予算要求が行われて、「予算が確定」したのだし、
豊中市は、「理事会で承認を得ていないので、予算要求はできない(から、現行体制のままで要求した)」と言ってみたり、逆に「予算を確定しなければ、理事会は開けない」と言ってみたりで、自分で全く逆のことを言っている。
↓
なぜこんなことになるのか? それは、早々と候補者リストを作って「適任者を確保」したうえ、理事会を「公募には間に合わない」時期に開催することを合理化するためである。すべては「別次元」の筋書きどおりに運ばれたのである。
被控訴人の主張によれば、人権文化部長と市長の2人だけの打ち合わせだけで、予算確保のメドが立てられた。
↑
自治体の予算が2人だけの打ち合わせで決まるというような専横を防ぐために、豊中市財務規則は、「予算要求─査定─復活要求─内示」という下からの積み上げによって予算を確定する手続きを定めているのである。
また、豊中市側の主張・立証では、書面としては、現行体制のままでの予算要求説明書があるだけである。あとは口頭での説明だけである。
↑
豊中市財務規則では、予算編成を適切にし、後に検証もできるように、書面主義がとられている。それにも反する。
豊中市財務規則がここまで無視されるのは、市議会の予算審議で問題になるのは「どなたが館長か」(本郷部長)だからである。
豊中市は、「市から派遣していた事務局長職を、常勤プロパーにする」ことが重要な政策変更だと主張している。
↑
・ところが、一審では、「派遣職員の暫時引き上げとプロパー職員の増員」は、「既に、行政改革の方針として決定されていた」と主張していた。したがって、これが、「所轄部長段階で判断し、決定することのできない」ほどの「重要な政策変更」であるわけはない。また、第1次・第2次山本試案にも、事務局長のプロパー化案がある。
・さらに、一審では、本郷証人も、「政策的な変更があったわけ?」という問いに対して、これを否定している。
・かつ、山本事務局長は、2003年5月の評議員会で、これから検討を始めると述べ、秋には理事・評議員意見交換会をする(その後も「企画中」)と言ってきた。したがって、「派遣をプロパーに」というのが、「重要な組織変更」であるわけがない。それほど「重要な組織変更」なら、財団事務局内で検討するはずだ。実際は、「控訴人排除」こそが「重要な政策変更」だったからこそ、隠したのである。
また、豊中市は、「豊中市の交付する補助金予算に影響するものだから、重要な政策変更だ」とも言っている。
↑
「財政とは関係がない」としており、本郷・武井証人とも「人事費は検討していない」と証言している。
(この箇所をご紹介する前に、まず、その内容と関連する、今までの裁判の経過を簡単に振り返ってみます。)
この裁判で、豊中市は、「すてっぷ」の組織変更を2004年4月に急遽実施した(それまでは、組織変更は「中長期的課題」だと言っていた)理由として、「山本事務局長の豊中市からの派遣期間が切れるのに、その後任を、市から派遣することが困難だった」ということを挙げてきました。
話は変わって、豊中市は、一審で、「非常勤館長職を廃止し、事務局長に一本化する」、「現館長[=三井]は、当初の目的を果たした[ので辞めさせる]」と決めた組織変更案(乙8号証、2003年10月15日付)を裁判所に提出していましたが、そこには、文書の「3頁目」であることを示す記載がありました。そこで、控訴審では、豊中市に他のページも出すように要求したところ、他のページも提出してきました(乙34号証)。
その乙34号証の1〜2頁には、上の乙8号証の組織変更案を作成する際、武井課長と山本事務局長とが協議してきた(2003年9月〜10月初め)内容が書かれていたのですが、そこには、以下のことが述べられていました。
・一本化後の事務局長は、豊中市から派遣することを予定している。
・事務局長はプロパー化するのが「ベスト」だが、市と財団の協力・連携強化の必要から、プロパー化は「2007年度からとする」。
上の記述を読んだ控訴人側は、「乙8を作成する直前まで、このように言っていたにもかかわらず、急に、『豊中市から事務局長が派遣できない』という理由によって、2004年度から組織変更をしたのはおかしい」と主張しました。
以上の主張に対して、被控訴人側が反論してきましたので(被控訴人第5準備書面)、それに対して再反論をしたのが、控訴人第5準備書面の第2です。以下、その内容を簡単にまとめてみました。
被控訴人第5準備書面における被控訴人の反論は、以下のようなものである。
乙34号証の1〜2頁は、「それまでの打ち合わせの考え方・課題を網羅した自分[=武井]用のメモ」であり、本郷部長も山本事務局長も見たことがないものだ。乙34号証の1〜2頁は、事務レベル協議で確定した文書ではない。だから、そのことを前提にした控訴人側の主張は、失当である。
↑
しかし、控訴人側は、乙34号証の1〜2頁が「事務レベル協議で確定した案だ」とは言っていない。乙8作成によって事務レベル案が確定する直前まで、「事務局長は豊中市から派遣する。プロパー化は2007年からにする」と明言されていたと言っているのだ。
被控訴人側の反論は、乙8を作成する直前まで、そのように言っていたことを黙殺しており、それが急に、「豊中市から派遣するのは無理だから、プロパー化は2004年度に実施する」と話に変わった理由について、何ら答えていない。
かりに「個人的メモ」であったとしても、「[武井・山本両氏の]それまでの打ち合わせの考え方・課題を網羅した」文書だと被控訴人側も述べているのだから、それが実際の両者の協議内容と異なるのか否かを述べなければならない筈である。
しかし、被控訴人は、その点について反論をしていない。たとえ本郷部長や山本事務局長が見たことがなくとも、「武井・山本両氏の協議内容を網羅してまとめたものである」という事実が重要なのである。
結局、被控訴人らは、緊急性がない組織変更を2004年度におこなって、控訴人の首を切ったと言える。
(1)控訴人:被控訴人が「(2004年度からすてっぷの組織変更をするということは、5月下旬に作成した山本第2次試案で急に決めたのではなく、)2003年4月におこなわれたヒアリングの段階で、2004年度からの組織変更を決めており、それに基づいて山本が第2次試案を作成したのだ」と言い始めたのは、控訴審になってからの主張であり、一審では主張していなかった。
↑
被控訴人:一審ですでに主張している。控訴人側は、一審での豊中市第8準備書面9頁(2)以下を見落としている。
↑
控訴人:その箇所を見ても、そのようには書いていない。
(2)控訴人:財団の組織変更は、中・長期的展望でおこなう予定であった(にもかかわらず、2003年5月末以降、三井排除のために、急に組織変更の画策をすすめた)。
↑
被控訴人:「中・長期的展望で組織変更を考える」とは言っていない。そうではなく、「(館長が)中・長期的構想をもって財団運営に臨んでもらうために、常勤化を直ちにせねばならない」と言っていたのだ。
↑
控訴人:驚くべき主張である。以下のさまざまな点から見て、財団の組織変更は、中・長期的展望でおこなう予定であったことは明らかである。
〇山本第1次・第2次試案における年次計画
〇2002年3月の理事会で、山本事務局長は「中長期的ビジョンの策定」を明言している。
〇理事会などの意見を受けて、2003年5月13日の評議員会でも、山本事務局長は「中・長期的ビジョンの協議をするために秋頃に、理事・評議員の意見交換会をやる」と述べていた(山本の発言どおり、意見交換会は、毎月の職員全体会議でも「企画中」と報告されてきた。そして、「10月上旬予定」→「10月下旬予定」→「11月15日予定」というふうに、予定日が決められ、「やる」と思わせつつも、そのつど日程は延期になり、控訴人に組織変更が告げられた後の11月26日になって、はじめて「延期」と報告された)。
〇山本事務局長と本郷部長は、一審の証人尋問でも、中・長期的展望で組織変更案を検討していたことを認めている。
今回の被控訴人の主張は、一審での主張とも異なっており、証拠上も成り立たない議論である。組織変更案を急に作成し、即実施した事実が説明がつかないために、豊中市が主張を変えたのであろう。
(3)B−4は実施案(略)
(4)控訴人:「すてっぷ」の組織変更は、現に役に立たなかった。
↑
被控訴人:統計では、目的使用、財団使用とも大幅に伸びている。
↑
控訴人:
(1)被控訴人は、「参加者数」ではなく、わざわざ「申込者数」でカウントしている。実際の「参加者数」は、2002年度をピークに、2004年度に持ち直すものの、2005年度には激減している。
また、北欧・EUポスター展の参加者数が、2002年以降は統計から削除されている。控訴人の「館長出前講座」もカウントに入れられていない。
(2)被控訴人は「貸室の使用状況は、2003年の31.5%から、2007年の37.9%に増えている」と言うが、施設開設以後、使用率が年々増えるのは当然である。また、2003年は、本来なら「財団使用」になるべき、組織変更をめぐるさまざまな会議が、ことごとく「すてっぷ」の外でおこなわれていた。
「男女共同参画苦情処理委員会」[注:これについては、「第6」で論じられています]が本格始動したのが2003年度末であったことに鑑みても、使用率は当然上がるはずだ。それにしては、2007年には減っていることの説明がつかない。
(3)豊中市は、すてっぷに国際交流センターを移転させて、すてっぷを縮小しようとしている。本当に男女共同参画活動が活発になっているのなら、当局がわざわざ「すてっぷ」をリストラの対象するとは考えられない。
豊中市:「理事会の自主、独立性は維持されている。財団の理事らは各分野にまたがっており、ボランティアとして参加している自主、独立性の強い人物である。」
↑
しかし、個々の理事が自主、独立性が強い人物であるかどうかと、理事会が、市の意向に支配されることなく自主、独立に財団の意思決定をなしえているかどうかは全く別の問題である。
甲211号証は、自治体の男女共同参画センターの元センター長と元職員が仮名を用いて『女性学年報』に書いた手記だが、そこには、「ここで描いた風景は、程度の違いや具体的出来事の違いはあっても、多くの男女共同参画センターで共通して発生していることでもあるだろうと思います」と述べられており、「すてっぷ」の状況に酷似した事実も記載されている。
この手記には、センターの運営が完全に市の主導でおこなわれており、財団には独立性などないことが、如実に語られている(注:以下は、甲211号証から抜き書きされている一部です。[]は遠山による補足です)。
・「市の外郭団体の位置づけが問われる会議……は一貫して市の完全主導で行われており……私はセンターの運営主体である法人の独立性が脅かされている、と違和感を表明していた。」
・「法人の理事たちは、もともと市が依頼して無給で名前を連ねてもらっている名誉職のような位置づけなので、私が法人独自の会議を持とうとしても、『お金がからむのだから、先に市と相談してもらわないと』と、法人としての意思決定をしようとはしてくれない。」
・「[市民との意見交換会において]私は、市の部課長たちがいる前で、法人の独立性は保障されていない、そういうつくりになっていない、とそもそもの構造の問題性を伝えた。」
・「行政がつくった外郭団体であり、行政が依頼した名誉職の理事では、[センター内の諸問題を]いくら相談しても強力なバックアップは得られなかった。結局『市に相談してくれ』と言われるのが落ちだった。」
・「理事会が意思決定機関なのだが、そもそも、出発当初から、『理事さんにご迷惑はかけません。年に一回の理事会にご出席いただければ結構です』と市に言われて引き受けた理事だ。理事の心から、センターは遠い。」
ここに書かれているように、理事は、構造的に、実質的な意思決定を全く期待されておらず、現実に市の意向から離れて意思決定をおこなうことは著しく困難だといえる。
こうした構造は、多くの男女共同参画センターに共通するものだと述べられている。被控訴人財団にも自主独立性はなく、組織変更は、豊中市の主導によっておこなわれたものだと言える。
[以下は、遠山から補足です] 上の『女性学年報』のエッセイの冒頭には、「このエッセイは、特定の団体、個人を批判することを目的としたものではありません。従って、団体や個人が特定できないよう、設定を変えてあります」と断り書きが書かれていますので、とくに裁判の場以外では、そうした点に注意して扱うべきだと思います。
○控訴人の主張
館長を公募にした理由が、かりに「立ち上げ期にふさわしい人材(知名度、存在感など)」を求めるいう点にあったとしても、有期契約にする必要はない(知名度や存在感は、立ち上げ期以後も、当然あったほうがいいので)。だから、この雇用期間の定めは、試用期間と同様のものと解すべきだ。
↑
●被控訴人の反論
以下の点から、なお館長を非常勤の有期契約としたことは、必要性と合理性があった。
(1)非常勤館長職は、人事、労務管理、総合的な経営企画などができないデメリットがあるが、立ち上げ期には知名度の高い人材を得る必要がある。そのような人材は、他職を持っている人が多いので、兼職ができる非常勤嘱託として広く公募し、人材を得た。
(2)非常勤館職のデメリットは、事務局長を配して補うことができる。
(3)立ち上げ期を過ぎて、中長期的、本来的観点から非常勤館長職を廃し、常勤館長職とする場合が生ずるが、その場合において期限付き非常勤館長職は、他職との兼務が認められていることや、期限付であることから……雇用関係を解消しやすい。
↑
○控訴人の再反論
(3)で「立ち上げ期を過ぎて、中長期的、本来的観点から非常勤館長職を廃し、常勤館長職とする場合が生ずる」と言うが、控訴人を館長に採用するにあたって、そのようなことは全く明らかになっておらず、決まってもいなかった。当時の資料にも、「立ち上げ期」に限定した記述は見当たらないし、被控訴人の一審での準備書面も、そのようには述べていなかった。
すなわち、被控訴人の主張は事実に反する。豊中市は、有期契約を合理化するために、採用の時点から常勤館長職にする場合が生ずることが決まっていたかのように主張を変遷させているが、主張を変遷させざるを得ないこと自体が、有期契約を合理化する理由が存在しないことを示すものである。
弘陵学園事件で、最高裁は、労働者を採用するに当たり、その適性を評価・判断するために雇用契約に期間を設けたときは、その期間は試用期間であると解するのが相当だと判示した。そして、試用期間の満了によって契約を終了させるのは、「客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当として是認される場合」でなければならないとした。
この最高裁判決の趣旨は、雇用期間の定めが、文字通りの試用期間の場合だけでなく、労働者の適性やそれ以外の事情から、一定の期間経過後において、雇用主側の雇用条件の再検討が必要となることが設けられた場合にも、当てはまるものと解される。
本件雇用契約に関しては、解約が許されるような、「客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当として是認される場合」ではない。
〇控訴人の主張
「男女共同参画条例の制定と引き換えに、控訴人排除の密約があった」と考える理由の一つは、「いくら条例の内容が良くても、それを実施する行政機関を骨抜きにすれば、男女共同参画は実現しない」ということである。
↑
●被控訴人の反論
「豊中市男女共同参画基本条例は、すてっぷ非常勤館長の職務範囲とは隔絶した、広範、重要な内容を有するものであり……控訴人の排除と比較するようなものではないことは全く明らかであり、控訴人の主張は非常識である」
↑
〇控訴人の再反論
豊中市が、条例が「広範、重要な内容を有する」根拠として挙げているのは、基本理念(3条)を別にすれば、男女共同参画条例苦情処理委員会(19〜22条)と人権侵害を受けた市民が行う訴訟等に要する費用に充てるための資金の貸し付け制度(18条)のみで、いずれも紛争解決に関わることにすぎない。
│
その苦情処理委員会への申出件数と訴訟貸付件数は、以下の通りである。
申出 訴訟貸付
2003年度 1件 0件
2004年度 3件 0件
2005年度 1件 0件
2006年度 1件 0件
2007年度 1件 0件
苦情処理委員会は、市民からの申出によって、助言、あっせん、是正勧告などをおこない、訴訟に持ち込む希望者には訴訟費用を貸し付けるのだが、そもそも委員会への申出自体が年に1件程度なので、画餅に帰している。
すなわち、いくら制度だけあっても、行政が制度のPRや男女共同参画理念の啓蒙をしなければ、利用などされない。男女共同参画条例で定める他のさまざまな事項も、「すてっぷ」の事業内容そのものであり、控訴人の役割は大きい。
また、いくら優れた条例が成立しても、改悪の攻撃にさらされたり、運用で骨抜きにすることも可能である。たとえば、松山市は、2003年6月議会で、男女共同参画推進条例が成立したが、改悪案が出され、運用段階で骨抜きにされた。
だからこそ、バックラッシュ勢力にとっては、条例の制定以上に、その運用こそが関心事なのである。現に北川議員は、条例制定時の賛成討論の際に、松山市の例を挙げて、条例の見直しに言及し、「運用において齟齬が生じた場合は、ちゅうちょなく」改正するようにクギを刺している。
●豊中市の主張
本郷部長が「もし万一、選考の結果、桂が適任でないという判断が下った場合には……我々が辞表を出して謝っても済む問題やないというふうに覚悟を決めました」と証言したのは、本郷部長が、選考は公平に行われるから「桂不合格、三井合格」という結果になる場合もありうることを前提としての思いだから、三井排除の意図を持っていたことに全くつながらない。
↑
○控訴人の反論
「それならば、なぜ、三井が常勤館長への立候補を公に表明した後の2004年2月9日になっても、『桂さんしかいない』と言って、桂が翻意しないように説得したのかかが説明がつかない(桂の翻意を受け入れていれば、責任問題になることはありえない)」
↑
●豊中市の反論
「2月9日段階では、候補者(として理事会で決まっていた人)は桂氏一人だったから、『桂さんしかいない』と、その事実を言っただけである」
↑
○控訴人の再反論
まったくの詭弁である。本郷部長は、桂さんが「三井さんが残りたいと言っているのに、行く気はありません。押しのけて行く気はありません」と言ったのに対して、「桂さんしかいないんです」と言ったのである。
ア 本郷部長について
○控訴人の主張
本郷部長が本当に選考における公正さを何より優先するならば、候補者の一人に対して就任を説得していた立場であることを考慮して、選考委員を辞退するのが筋である。それをしなかったのは、面接審査後の意見交換の際に意見を述べて、(三井を不合格にするように)選考に影響を与えるためにほかならない。
↑
●豊中市の反論
(1)選考委員のうち1名は市から出すのが当然であり、それは、人権文化部長以外には考えられない。また、本郷部長は、「選考委員に選任されたからには公平にやることが任務だ」と考えたから、面接の際は質問しなかった。
(2)桂も、一審の証言で「公正というか、まじめに面接されたんだなと思った」と言っている。
↑
○控訴人の再反論
(1)について……質問などしなくても、面接審査後の意見交換の際に影響力を及ぼすことができる。豊中市も、本郷が意見交換の際に意見を述べたことを否定していない。
(2)について……桂証言を正確に読むならば、桂は、あくまでも全体の選考委員会が公正であったかどうかは「わからない」と答えており、ただ、理事の集まりの際、市に対して、内定している人がいることを言わなかったことに抗議している理事(吉井理事)がいたので、その理事は「まじめに」やっていると思ったにすぎない。
│
・しかしながら、吉井理事が市から内定している人がいることを仮に聞かされていなかったとしても、本郷部長が桂を強力に推す発言をすれば、その影響を受けざるをえない。
・また、吉井は「内定」を知らなかったというが、吉井が出席した2004年2月1日の理事懇談会では、本郷部長は「どなたが館長か、市長が了承していない方を議会に上程すると、問題が出る。だから、市長と理事長にリストアップしたものを示して、『それで当たれ』と言われて打診したが、了承を得られたのはお一人です」と述べている。本郷部長のこの説明を聞いたある理事は、すでに館長の後任は事実上決まっていると受け止めており、吉井の認識は現実離れしている。
イ その他の委員について
○控訴人の主張
M委員・H委員は、2002年および2003年を通して一度も理事会に出席しておらず、そのような委員は他に存在しない。この点からしても、わざわざ財団の活動に関心が薄いと思われる理事を選考委員に選任したと言わざるをえない。
↑
●被控訴人の反論
(具体的反論はなく、以下のように述べているだけ)「M・H……委員も、各自独立、自主性の強い財団の理事から選任されているから、判断にあたって本郷部長の影響を受けるものではない」
↑
○控訴人の再反論
『女性学年報』の手記[遠山注:「第5」で紹介しました]には、理事が、市と対等で自主独立しているとはほど遠い現状が赤裸々に述べられている。
●豊中市の主張
豊中市は、財団とは別個の法人なので、控訴人に対する人格権の侵害の事実はない。
↑
○控訴人による批判
豊中市は、財団に対する実質的な人事権を有し、かつこれを行使している。
(1)財団の理事長も、市長は、財団人事について最終的な任免権を有していると認めている(高橋証言)。
(2)本件においても、市の部長である本郷が、市の課長である武井、財団への市の出向職員である山本とともに、財団の体制変更を事実上決定し、控訴人の後任者探しをおこなってきた。
●豊中市の主張
体制変更について控訴人に説明し、控訴人の了承を得ていた
↑
○控訴人による反論
=以下の(1)〜(7)
(1)6月9日の運営会議
豊中市の主張
「6月9日の運営会議で、控訴人にも山本第2次試案を配布した」
↑
控訴人による批判
6月9日の運営会議で提出されたものは「私的に大学のペーパーのような感じで出した」ものであり、運営会議での議題にもなっておらず、当然、議論も説明もまったくなされていない。
山本の証言によっても、3枚の総論部分を資料として添付したにすぎず、最も重要な具体的人事案である「職員体制整備計画案」は全く提出していない。山本は、この時点では「まだ職員体制整備計画案は作成していなかった」と証言したが、後述のように、これは虚偽である。
こうした状況では、およそ控訴人が「2004年3月末で控訴人を雇止めにして、常勤館長を導入する体制変更を行う」ことを予定しているとは、想像さえできない。
(2)予定が記載されだだけで開かれなかった「理事・評議員意見交換会」
組織や職員のあり方については、2003年5月13日の評議員会で、山本事務局長が「中長期ビジョンの作成について、今年秋頃をめどに理事と評議員で意見交換会をする」と述べた。
その意見交換会は、その後の毎月の職員全体会議で「企画中」とされ、日程も、6月と7月の会議では「10月上旬実施予定」、8月の会議では「10月中旬実施予定」、9月の会議では「10月下旬実施予定」というふうに決められた。控訴人も何度もそのために日程調整をするように説明を受けていた。
ところが、10月の会議では「11月15日予定?」と延期され、11月には「延期」とだけ記載されたまま、まったく実施されなかった。
(その一方で、山本は、かげで市との協議を重ね、10月中旬には組織変更案を決定して、市長の了承を取っていた)
山本は、控訴人ら職員には、組織変更は中長期的課題であり、理事や評議員の意見交換を経て決定するものと「誤解」させるために、「理事・評議員意見交換会」の予定だけを記載して、実際には実施しなかったのである。
(3)ページ番号の操作
山本は、2004年1月10日、控訴人から、2003年6月9日に配布したとする組織変更に関する資料を提出するように求められた際にも、9枚綴りのうち3枚しか渡さなかった。
その3枚には1/9〜3/9のナンバリングが振られていたため、控訴人は、印字されていた同じ「2003.05.25」に作成された書類が他に6枚あることに気が付き、それらも提出するように求めた。山本は、そのうち4枚を渡したが、それらからは、ページ番号や作成日が消され、わからないようにされていた。
(4)「私の立場では見せられません」
残りの2枚については、山本は「私の立場では見せられません」と述べて、控訴人に隠し続けた。このことは、具体的な組織変更案については控訴人に隠しておくという方針が、豊中市の方針だったことを示している。
(5)「職員体制整備案」があったにもかかわらず、総論部分のみとした虚偽
6月9日の運営会議で見せた総論部分の3枚だけでは、控訴人をすてっぷから排除することが計画されていることが全く分からない。むしろ、館長職は「雇用期間の問題を抱えている」とか「役割・権限を強化する」とか書いてあるので、雇用関係の改善と解される。具体的な人事案である「職員体制整備案」が付されて初めて、「組織変更案」の真の内容を理解できるものだった。
パソコンで作成した際に、9枚綴りとして自動的にナンバリングが付されるのだから、すでに5月25日の時点で、6枚の組織変更案が作成されていたことは明らかである。
しかるに山本は、9枚のうち、総論部分の3枚のみを資料として配布し、「組織変更案」が控訴人排除を目的としていることは覚られないように隠しつつ、「資料を配布した」という「アリバイ」づくりをおこなったのである。
(6)要求しなければ出さなかった組織変更案
また、2004年2月1日の理事会を直前にしながら、控訴人が正式な組織変更案を見ることができたのは、わずか1週間前の1月24日であった。
この書面は1月10日付けなので、実に2週間にわたって控訴人に手渡されなかった。しかも、控訴人が要求しなければ、最後まで渡されることはなかったのである。
(7)控訴人には徹底して隠し続けた
山本は、2004年2月1日の理事会で、理事長が「人事の前に、体制改編に関しては議論はしたんですか?」と質問したのに対して、「具体的なところでの話はしておりません」「会議を開いたりはしておりません」と答えている。
◎すなわち、被控訴人らは、雇い止め「人事」を強行する前に、組織変更について、一切具体的な話をしていない。被控訴人らは、前記のとおり、あたかも「理事・評議員意見交換会」を行って議論をおこなうかのように控訴人に誤解させる一方で、控訴人の排除という「組織変更案」の具体的内容については、徹底的に控訴人に隠し続けたのである。
●豊中市の主張
「2003年7月、山本事務局長は控訴人に、2004年4月時の派遣事務局長の交替は困難であると説明している」
↑
○控訴人による批判
「派遣事務局長の交替は困難」かどうかは、山本が述べただけで判断できるものではない。
法によって、派遣期間の延長は認められている。現実にも、豊中市の派遣職員の5人に1人が、派遣期間を超えて派遣されている。
ましてや、市派遣職員の交替ないし期間延長の問題が、直ちに2004年4月からの体制変更につながるわけではない。
●豊中市の主張
「11月8日、体制変更とそれにより控訴人の来年度の更新はない旨説明し、控訴人から『残念だが仕方がない』と了承を受けた。」
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○控訴人の反論
控訴人が本郷部長から言われたのは、「来年度から館長と事務局長を一本化するという組織変更案が出ています。正式には理事会にかけて審議することですが、そうなった場合、非常勤館長はなくなるということです」というものだった。そして、その直後、山本事務局長は「それ[一本化したもの]は、第1義的には三井さんにお願いするということです」と述べた(この点は山本も認めている)。
だから、控訴人は、組織変更はまだ決定したものではなく、決定したとしても自らが常勤館長に就任するものだと理解した。豊中市は、控訴人にそのように理解させる一方で、後任候補を大急ぎで探して、決定した。
であるので、11月8日のこのやりとり自体、控訴人の人格権を侵害する行為である。
○控訴人の主張
本郷部長や山本事務局長は、「三井さんを押しのけて行く気はない」という桂の意向を何度も直接聞き、かつ三井が雇用継続の希望を述べていることを承知しながら、「三井さんは常勤は無理なんです」(12月11日)、「桂さんしかいないんです」(2月9日)、「三井さんは了解されました」(3月)と虚偽の事実を述べて桂を説得した。三井が12月15日に雇用継続と組織変更見直しの申し入れをしたことも、翌日豊中にやってきた桂に伝えていない。
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●被控訴人の反論
「[12月15日の申し入れは]控訴人の要望は非常勤館長の継続であって、常勤事務局長の候補者になることを求めるものではないから……関係がないものとして特に控訴人の要望書の件は桂氏には伝えていない」など。
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○控訴人の再反論
1)控訴人が雇用継続の意思を有している事実は、桂にとって「関係がない」どころか、重大な問題である。
2)また、「三井さんには無理なんです」「あなたしかいないんです」「三井さんは了解されました」などの虚偽情報を桂に流布した事実については、豊中市は何らの弁解もできていない。
組織変更や館長雇い止めは、財団で議論もされないまま進行し、実施わずか2カ月前の理事会で初めて議題になった。財団はまったく機能しておらず、組織変更が既成事実として市によって一方的に決定されたのであり、このような組織変更、雇い止めは手続き上違法である。
豊中市の主張:増木重夫氏がらみの貸室申込みも「豊中市は、平等・公平の立場で……判断しているものであり、バックラッシュ勢力に屈したと言われるものではない」。
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(1)増木氏は、すてっぷを攻撃する以前から、教育委員会や学校長に、卒業式・入学式のあり方や教科書採択などをめぐって介入活動をしてきた。増木氏は、北川議員(当時)が理事長を務める「教育再生地方議員百人と市民の会」の事務局長でもある。このような情報は、当然市の耳にも入っていた。
(2)問題の貸室申入れに関しては、すてっぷは「設立目的に反する」として断ったのに、その後、増木氏が市にねじ込んで、その結果、市が一般使用を認めたのである。
山本事務局長は「貸すことになった場合、今後影響を受けていくのは必須です」と控訴人にメールで報告している。増木氏らの動きに危機感を持った山本事務局長は、彼らの動きについて「『市民』を名乗っていますが、特定のグループに属したきわめて組織的な活動です」、「財団に対する攻撃も今後ますますエスカレートすることが予想されます」と述べている。つまり、そうしたことがわかっていながら、豊中市はすてっぷの使用を認めたのである。
この市の判断に、市議会での質問が関係しているだろうことは否定できない。2002年8月、北川議員は、貸室基準やすてっぷの窓口対応について縷々質問した。豊中市が「救う会・大阪」の申込を一般使用から目的使用に変更したのは、その翌月である。
市の対応は、まさにバックラッシュ勢力に譲歩・屈服したものである。
(3)4月5日の新聞各紙は、増木氏らが、西宮市の私立小学校を訪れ、「組合の役員の男性教諭を処分しろ」と要求し、校長が断ると「入学式に街宣車を出して抗議行動をする」と脅して逮捕されたことを報じている。
また、3月12日、東京地裁は、七尾養護学校の性教育を攻撃し、教材などを没収した都議会議員3人と東京都に賠償を命じた。この3都議は「教育再生地方議員百人と市民の会」の会員である。実際、控訴人も、同会のA氏から都議会議員の名を告げられ「懇意だ」などと言われて、質問を無理強いされたり、面会強要をされたりしている。
このように増木氏らが属する「教育再生地方議員百人と市民の会」は、自治体や教育委員会に不当な圧力をかけて、屈服させてきたのであり、豊中市の対応もその適例である。
(1)事実経過(略)
(2)豊中市は、「控訴人は、副議長に会うことについて、『抗議に行きたいので、部長も同席されたい』と申し入れた」と言っている。
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・控訴人は、抗議するのが目的ではなく、噂の出所と内容を確認するために行ったのであり、もとより穏やかに話をしている。
・本郷部長は「法務局に相談に行ったらどうか」と言ったが、噂だけでは、誰を訴えるかも特定できない。
・しかも、この間にも噂が噂を呼んでさらに広がる恐れもあり、現に、11月には法政大学の教授も口にした。「教育オンブッド豊中」のHPにも記載されたし、『別冊宝島 男女平等バカ』にも載った。
(3)また、人権文化部長は、控訴人が「一緒に行ってほしい」と言ったのに対して、「条例審議への挑発活動で、意図的なものを感じる。慎重に対処してほしいので、同行を断った」としていた。
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・しかし、これは、控訴人の個人的問題ではない。噂は、館長出前講座というすてっぷの事業で館長が発言したことに対する悪質な誹謗だから、すてっぷという組織にかかわる問題である。同席して真偽と事実経過を確かめるのは、本来的に市の役割である。
・しかも、その後、人権文化部長は、前言をひるがえして、数回にわたって「個人としても会わないように」と言ってきた。
(4)人権文化部長が控訴人の副議長面会を阻止しようとしたのは、「我々は否定したけれど、(副議長が)総務委員会でそんな問題まで出しかねない」と心配したからだ。
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もしそうであるなら、控訴人は、噂が根も葉もないものであることを副議長に直接伝えるために面会したのだから、なおさらのこと、同行して明快に否定する必要があった。市の態度は、事実無根の名誉毀損攻撃に対してあまりに消極的である。「北川議員と同じ会派の副議長の機嫌を損ねることを恐れたのであろう」(浅倉むつ子)。
(5)人権文化部長は、法務局への人権救済申立を勧め、「一週間後には部長も同行するので、一週間待ってほしい」と提案したと述べている。
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しかし、「一週間後」という期日を控訴人は聞いていない。部長が発言したのは、「知り合いが法務局にいるので、いずれ落ち着いてから相談に行ったらどうか」という、はなはだ不確かなものであった。また、同部長は、「一緒に同行するとは言っていない」と述べていた。
いずれにせよ、市民の人権を守る立場にありながら、法務局に相談をすすめるというのは、責任逃れである。ましてや誹謗中傷に対して明確に異議を述べずに放っておくことは、バックラッシュ勢力の思うつぼなのである。
(6)豊中市は「山本事務局長は『控訴人は噂のような発言はしていない』と明確に否定した」と言う。
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・しかし、吉井理事が「事実無根なら、それは事実無根だと否定されてますよね?」と質問したのに対して、山本事務局長は、「事実確認はされておりません」とはぐらかし、「明確な否定」などしていない。
・また、山本事務局長は、この日の出前講座を企画した主催者側にバックラッシュ系が加わっていることを事前に知って、知人に出前講座への参加を要請している。ならば山本事務局長は、「根も葉もない噂だ」と誰よりも強く否定すべき立場にいたのに、矢面に立つことを恐れてか、毅然たる態度をとっていない。
〇控訴人の主張
控訴人に対して、西村次長は「関係者へのお詫び行脚をしなくては」と述べた。その後も、山本事務局長を通じて何度か「お詫び行脚することを考えてほしい、と(市幹部が)言っている」との要請があった。
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●豊中市の主張
バックラッシュ勢力の攻撃に対して豊中市らは毅然として対応しており、控訴人に「お詫び行脚」を求めたことはない。
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○控訴人による批判
これは、虚偽である。その証拠は、「部長・北川議員面談結果にもとづいて打ち合わせ」と題する文書である。
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この文書は、11月21日、本郷人権文化部長と北川議員が面談した後に、同人権文化部長、武井課長、米田主幹、山本事務局長が打ち合わせをし、その結果を山本事務局長が記録したものである。⇒この文書には、北川議員の言い分が書かれているとともに、市の方針として控訴人・事務局長両人が、関係者に面談して謝罪することに決めたことが記載されている。
豊中市は「11月20日に、本郷人権文化部長と武井課長らが『最終協議』をして、山本事務局長の謝罪と処分を決めた」と主張してきたが、その翌日、部長が北川議員と2人で会って、北川議員の言い分を呑み、控訴人にお詫び行脚をさせることに決めたことは明白である。
●豊中市の主張
男女共同参画推進条例の2003年3月議会上程を見送ったのは、以下の理由による。
(1)条例案がまとまったのは2月であり、男女共同参画に対する考え方がさまざまで、議会対策が十分できていないこと。
(2)9月に市議会議員選挙をひかえ、議員の任期満了によって継続審議になると、自動廃案になる可能性があること。
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○控訴人による批判
・豊中市長が条例制定を表明したのは2001年3月市議会で、人権文化部長は、2002年3月の財団理事会で遅くとも2003年3月議会での成立を明言している。行政のタイムスケジュールはよほど不測の事態がなければ変わらない。議員選挙は既定の事実だから延期の理由にはならない。
・2002年3月以降、条例案の内容が網羅された審議会答申に基づいて説明・議論がなされてきた。
・真実は、バックラッシュ勢力の猛攻撃に対して、豊中市や財団が危機感を募らせて延期したのである。そのことは、次の(1)〜(6)の証拠が如実に示している。
(1)2003年度第1回理事会議事録での山本発言……条例制定延期は、バックラッシュ議員&団体のよるものであることが説明されている。
(2)豊中市在住・在勤者の陳述書
2002年12月9日、すてっぷにおいて、条例推進を求めている市民交流会を開いた。そこで山本事務局長は、条例案に反対するバックラッシュの説明と、それへの対抗運動の要請を参加者にしている。その参加者らの陳述書からは、バックラッシュ攻撃によって条例案上程が危機に瀕していたことがわかる。
(3)10月中旬にも、豊中市人権文化部女性政策課から、市職員組合女性部に、バックラッシュへの対抗運動を要請した。
(4)山本事務局長は、2003年4月の文書でも「一部市民による活動が活発化し、市のめざす男女共同参画推進条例制定を阻害している現状」を述べている。
(5)山本事務局長名で、すてっぷから理事らに宛てた文書「豊中市とすてっぷへのバックラッシュ(ある勢力の攻撃)の件」
(6)山本事務局長名で、すてっぷから「市民交流会への参加のお願い」という文書
(7)人権文化部長が、条例案上程断念について、「バックラッシュの力が大きかった」と語った会議の記録を記した陳述書
以上、ここまでバックラッシュの勢力の攻撃に危機感を募らせ、市民に対抗運動まで鼓舞したのは豊中市自身である。条例をタイムスケジュールどおりに成立させるために市民運動を必要としていたのである。しかし、バックラッシュの勢力の猛攻により条例案上程を断念せざるをえなかったのである。
●豊中市の主張
2003年6月9日の運営会議で全員が了承して、無用の摩擦を避けるために発言の趣旨は変えず表現を変えたもので、控訴人も加わっている。
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○控訴人による批判
(1)しかし、それは山本事務局長の発案で、その意図は北川議員に攻撃されないようにというものである。その運営会議で検討したのは、2003年5月13日・15日の理事会の会議録である。その際、控訴人自身も、「普段着のフェミニズム」を「普段着の男女共同参画」に、など数カ所訂正している。
(2)しかるに、控訴人が問題にしているのは、2002年度の会議録である。これは、「趣旨を変えない範囲で変える」といったものではなく、改ざんそのものである。この改ざんは、館長である控訴人に全く知らせなかった。
バックラッシュに関する発言が大きく削除や改ざんをされており、しかも館長にこれを知らせなかったのは、その時点ですでに三井排除が決定されていたからだと思われる。
豊中市は、条例案制定の3月上程前までは、バックラッシュに対抗する市民たちを鼓舞していたが、上程が延期された後、6月ごろから目に見えて態度が変わっていった。さらに副議長からの噂やファックス事件の発端となった文書が槍玉に上げられる中で、ことごとに屈服姿勢は顕著になっていった。バックラッシュ勢力に迎合を続け、条例は成立されたものの、その代償は館長の首のすげかえであった。密約とはまさにその実行を決めたことを指すのであり、バックラッシュ勢力の攻撃の一連の流れから見ても、否定できないところである。
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